1.17プロジェクト~がんばってるで!神戸~

About 1.17 project1.17プロジェクトとは

20年前の記憶、20年間のできごとを大切にしつつ
神戸から今現在の 「がんばってるで!」 を発信しました

1995年1月17日(火)阪神・淡路大震災の発生から2015年で20年の節目を迎え。
Kiss FM KOBEではTOKYO FMとの共同制作番組、レギュラー番組内でのインタビューやメッセージを放送、
2015年1月17日(土)あの地震から20年となる時間には特別番組をお送りいたしました。
本ウェブサイトでは、神戸ゆかりの方々からのメッセージやリスナーから届いたお便りの一部を紹介しています。

Messageメッセージ

  • 震災から20年、
    神戸ゆかりの方々からの
    メッセージ。

    ラジオ放送内でインタビューにお答えいただいた方々からメッセージをいただきました。

  • タレント

    平 愛梨様

    多くの方々に支えられた20年

    私が阪神・淡路大震災を経験したのは小学校4年生の頃でした。「地震」という物・自体、初めての経験で、街は建物が倒れたり、地面が割れたり、避難して怖い思いをしながら街のみんなで過ごした思い出があります。
    そこから20年。当時より立派なビルがたったりと、当時の事が信じられないほどの復興を実感しています。ですが、これも全国いろんな所の方々に助けてもらい、街のみんなが一丸となった結果だと思います。
    経験した教訓などを忘れずにしっかりとこれからを生きていきたいです。

  • 明石天文天文科学館館長

    長尾 高明様

    笑顔の溢れる科学館を目指して

    20年前の震災で明石市立天文科学館の塔時計は地震発生時刻の午前5時46分で止まり、建物の内部は、天井が崩れ、壁にヒビが入り、資料や展示物も使いものになリませんでした。さらに上部の天体観測室はさらにひどい状況でした。その中で奇跡的に唯一無事だったのがプラネタリウムでした。そして3年2ヶ月をかけて修復し、98年の3月15日にリニューアルオープンしました。開館4日間で2万以上の方が来場。この時の嬉しさが今でも忘れられません。現在は震災の事をしるスタッフも私一人。震災を知らない世代に伝えていき、風化を防ぐのが第一じゃないかと思います。第二に、今は苦しくても、いつかは復旧・復興の日がやってくるということを発信できたら思っています。そして、明石市立天文科学館は日本で一番、お客様の笑顔の溢れる科学館を目指して精一杯頑張っています。

  • ミュージシャン

    松任谷 由実様

    大好きな神戸

    松任谷由実です。Kiss FM KOBE「1.17プロジェクト」に、私も参加させてもらおうとメッセージを届けました。
    私は、誕生日が1月19日なんですが、20年前はそれどころではなく、自分でやっていたラジオの番組に届いた、伝言のようなたくさんのコメントを、今もすごくリアルに毎年思い出します。神戸にはその後ライブでも来ていますが、復興した様子や、それ以前の変わらない神戸のバイブレーション、そして新しく変わった神戸を見て、改めて月日の経つのは早いと感じています。また、去年行ったライブのツアー中、長く神戸でオフ日をとって神戸から四国へ出発しました。橋を渡るときに雨が降っていたんですが、遠ざかって行く神戸の街がとても美しくて、改めて私は神戸が大好きだと思いました。変わることはないと思いますが、20年後も大好きな神戸であって欲しいし、神戸が大好きな自分でいたいなぁと思います。

  • ミュージシャン

    浜田 省吾様

    Kiss FM KOBEをお聴きの皆さま、そして、番組スタッフの方々へ、

    20年の歳月を長く感じるのか、短く感じるのかは人によって違うと思います。神戸が再生したと感じるのか、今も回復の途上にあると認識するのか、それも人によって異なると思います。それはこの地に住み暮らす人々、震災を経験した方でないと分からないことなのでしょう。
    その後に起きた東日本大震災の被災地に対して最も強いシンパシーを持たれたのは神戸の方々ではないかと察します。神戸に住む人々は自ら痛みを経験することで、他の人の痛みをより強く感じることが出来るのだと思います。そんな神戸を今は頼もしく感じています。

  • 株式会社ポトマック 代表取締役

    金指 光司様

    神戸のオンリーワンを世界へ発信。

    ■震災当時について。
    1月17日、あの日は思い出深い・・・節目になる大きな日でありました。震災の時まで4店舗まで増えていました。震災で3店舗が全壊し、1店舗残ったのが現在トアウエストにあるリブラボキッチン」という店舗(以前は「TOOTH TOOTH」のブランドのお店でした。)当時はリュックサックを背負った家族連れの方やご高齢の方などが水や食料の補給を求めて行きかっていました。周りはガレキだらけの街でしたが、ポツンと一つ灯りがあったため、色んな方がお店を訪れてくれました。
    しかし、オープンはしたものの食材もなく、ガスはプロパンガス、毎日変わる給水所へ水をくみにいって営業していました。材料も冷蔵庫の中にあったありあわせの食材で作る料理を提供したのですが、皆さんに喜んでもらいました。中でも老夫婦の方には「ありがとう」と何度も手を取って頂いて、涙をされたことが大きな思い出であり、転機でもあります。食というのは胃袋を満たすものでなく、心を満たすものなんだなと感じ、震災が我々にとって大きなターニングポイントになりました。
    ■これから10年、20年後に語り継ぎたい事は?
    僕が震災で感じたことは「人と人は団結する」ということ。垣根がなくなってお互い助け合うという、人として一番美しい部分がクローズアップされます。その中で大事になってくるのはポジティブに明るく未来を夢見ながら頑張ることが大事だと思います。
    ■これから頑張っていきたい事は?
    神戸の魅力を世界に発信する事が大事だと思います。東京、ニューヨーク、ロンドン、パリに行かなくても神戸には素敵なレストラン、観光ランドマークがあるということを、新しい世代、次の世代が作っていくことが大切です。
    神戸はデザイン都市であるので、デザインやクリエイティブということを通じて世界に発信することが出来るのではないかと思います。ポトマックもそんな使命を持って、神戸を世界に発信していきたいと思います。

  • ミュージシャン

    角松 敏生様

    「人間の強さ」「気の強さ」を宿している街 神戸

    当時、震災10日後にはギターを抱えて、歩きで友人のところに行ったりKissFMへお見舞いに行って生で出演して歌を歌わせていただきました。避難勧告が出ているビルにも関わらずそこで必死で流しているDJ(僕の親友が番組をやっていました)・・・メディアの意味を考えさせられました。
    やはり震災が起こってすぐというのは、「目の前で起きていることをどうしたらいいのか?」そういう切迫しているところで、いろんなことをしてあげたいと思っても、「ありがとう」と言ってくださっても、結局乗り越えて行かなきゃいけないのは当事者のみなさんなんです。
    だから僕がもっとも大事だなと思ったのは自分も仕事をがんばって経済活動をやめないこと。そして国の気分を元気にしていくこと。それが復興の一番のエネルギーなんじゃないかと。実際自分が徒歩で何キロも歩いて行って、被災者の方の惨状を目の当たりにして気持ちを受け取って。最終的に感じたのはそういう思いでした。
    景気の「気」は「気分」の「気」。人間の気持ちひとつで国の勢い、街の勢いというのは変わっていく。そういう人間の「気」というものを盛り上げていくというのが僕ら音楽をやっていく人間の仕事かなと思っています。
    ここのところずっと年末、神戸でライヴを行っています。阪神大震災があったことで、そこからひらめいたモチーフを曲にしたことがあります。それは人の強さというものを歌っています。
    これから神戸という街は、震災の記憶と同時にその記憶の中に「人間の強さ」、「気の強さ」というものを宿しているということをメッセージできる街になっていってほしいなと思っています。神戸の明かり、あの活気が僕は大好きです。
    これからも神戸の街を愛していきたいと思います。
    キスナーのみなさん、これからもお元気で。

  • 菊正宗 常務取締役 管理担当

    半田 吉彦様

    命と信用

    災害に対する備えは絶対に必要です。しかし、それ以上に大切なのは、前向きに生きていく気持ちとそれを支える周囲の支援だと感じました。(昨今の食品に関する事故を例に挙げ)信用を築き維持するには長い年月がかかりますが、信頼を失うのはあっという間です。ネット社会の怖さや行き過ぎた報道にも問題はあるかと思いますが、信用を守ることは命(従業員の生活)を守ることに等しいとすら思えてきます。
    とにかく命を守ること、そして耐震強化や災害に対する訓練を繰り返し伝えていくことが重要です。
    命と信用さえ失わなければ何とでもなる・・・そういう前向きな気持ちを持っていただきたいと思います。

  • 映画「神戸在住」の監督

    白羽 弥仁様

    映画から伝える震災の教訓

    阪神淡路大震災が発生した時は、灘の自宅にいました。被災した町は15分行ける距離も建物の損壊で町がぐちゃぐちゃになり、物資の輸送などで2時間かかるほどでした。
    震災はいつまた起こるかわかりません。過去の教訓を生かして、備える気持ちは常々に持っておきましょう。

  • 株式会社神戸マツダ 代表取締役社長

    橋本 覚様

    神戸マツダと震災当時、そしてこれから

    当時、兵庫県にある各営業所も全壊してしまい、社員そしてお客様の安否の確認に回りました。また、全国のマツダディーラーや関係各社からお客様や弊社へ支援を頂き、その支援物資を配り廻りました。その時、車が建物の下敷きになっているのを見たとあるお客様が涙を流されていたのを見たスタッフは、改めて、車は移動するためだけのものではなく家族の一員なんだと感じさせられました。これからは防災、減災に対してどんな事ができるのか、考えて実践していくのが大切だと考えています。

  • 神戸市社会福祉協議会 広報交流課 ボランティア情報センター

    松村 吉隆様

    直接的な活動はもちろん、間接的・中間支援的な活動と長期の活動者を欲しています

    現在、わたしはボランティア情報センターで、自然災害に対する支援活動、来るべき「南海トラフ巨大地震等」に備えての防災・減災への啓発事業、来年5年を迎える東日本大震災への復興支援を行っています。
    また「こうべ災害ボランティア支援マニュアル」というものを策定しました。これまで、全国の災害ボランティアセンターは、どちらかというと社会福祉協議会の職員が中心となって運営してきましたが、近年東日本大震災などでもそうですが、学生や近隣住民・団体・企業等が運営する側に回ってお手伝いしていただくことが多くなってきました。直接的な活動も大事ですが、間接的・中間支援的な活動も長期の活動者を欲していますので、興味のおありの方は、ぜひ"災害ボランティアマニュアル"と検索してご一読いただければと思います。
    震災で得た教訓としては、いざという時の正確な情報というものは一番大切だということ。停電になるとテレビも見えない。電話も通じない。そのためにも安価で簡易なラジオも乾電池の液漏れのないように日頃のチェックとともに、日頃からラジオを聞いておくことが大切です。
    現在、三宮の東遊園地で行われる「1.17のつどい」に向けて準備をしています。当日は竹灯篭に関するパネル展示など行っていますので、是非お立ち寄りください。

  • チキンジョージ

    児島 進様

    ライフラインはもちろんやけど、音楽も必要やなって思えた。

    20年前の震災で、チキンジョージは全壊しました。1ヵ月くらいは何もできない状況でしたが、照明・音響などの機材は取り出すことができて、復興は早かった方かもしれません。その年の5月には、チキンジョージの跡地で「青空ライブ」を開催しました。前売りチケットを出せる場所もない・・・インフラもない・・・何が音楽やねん、って言われるかもしれない。途中で演奏を止められるかもしれない。だけど、やってみよう。そんな思いのもと行うと、「楽しかった、良かった」との声をもらい、ライフラインももちろんやけど、音楽も必要やな。この仕事に意義があるんやなと思えました。その後、チキンジョージは12月に復活しました。出演したミュージシャンたちが話していて印象的だったのが「お客さんから逆に力ともらった」という言葉。お客さんのパワーがとにかくすごかったんです。
    今では、チキンジョージのステージに震災後に生まれた子たちが立つようになって、これがまた上手い!(笑)趣味でもいいから、音楽を一生続けてほしいなと思いますね。今年チキンジョージは35周年。これから40周年に向けていろいろがんばっていきます!お楽しみに!!

  • ミュージシャン

    大江 千里様

    日本の外から
    神戸のことを強く、さりげなく
    発信し続けたい

    震災から20年。信じられない時の流れです。みんなそれぞれ、自分の人生に必死ですから、1年に1度この日に思い出して、思いを巡らせないと風化してしまうと思います。復興が進む中、年々「大丈夫なのかな神戸・・・」という気持ちは減ってきているかもしれませんが、それがある意味"復興の証"だと思うと同時に、それだけでは量れない心の傷は必ずあるはずです。
    世界のどこかで戦争があり、傷ついて、亡くなっている人がいる現在。神戸だけじゃない・・・と言えるかもしれませんが、少しでも痛みがある場所へみんなの気持ちを注いで伝えていくことは、決して小さい事ではない・・・20年たった今だからこそ思います。
    震災をふまえて、それを肥やしにし、痛みを知っている優しい街・神戸だからこそ、相手をおもんばかる親切な街として、世界中に神戸のメッセージを送り続けてほしいです。僕も海外に住んでいる日本人として、神戸のこと、日本のこと、海外にいるからこそ直接世界中の人に伝えるチャンスがあるからこそ、伝えていきたいと思います。今僕は日本では生活していませんが、日本の外から、神戸のことを強く、さりげなく発信できるような基盤を、自分の音楽と声で少しずつ作っていきたいです。

  • 演劇集団キャラメルボックス 製作総指揮

    加藤 昌史様

    演劇集団キャラメルボックスと神戸

    東京の劇団だったキャラメルボックスが初めて東京以外で行った公演が神戸でした。そんな神戸で阪神淡路大震災が起こり、お客さんの名前が出ない事を祈るばかりでした。何かできないかとすぐに神戸へビデオ上映会をおこないにいきました。きっと大変な時だったのにも関わらず、上映会当日は、朝からたくさんの方に並んで頂きました。それから「ずっと神戸に来ます。」という約束と共に、神戸を見つめ続けていました。復興していきながらも、時間がどうこうという訳ではなく、この体験を次にどう繋げていくのかというのを、すごく考えられているんだと感じました。東日本大震災の時に、神戸の皆さんが助けの手を伸ばす姿を見た時に、痛みを分かっている方が次につなげることができるんだなぁと感動しました。

  • ミュージシャン

    今村モータース様

    今の僕。

    震災から20年、あの日の僕には理解できなかった事、言えなかった事。少しずつ変わって来れたのは、この街で生活してきた証だと思います。毎日はあっけなく過ぎたりしますが、この街と自分の音楽を通してたくさんの人に出会えれば嬉しいです。「20年生きた!」

  • 阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 研究部長

    村田 昌彦様(むらた まさひこ)

    大災害に備えた減災社会の実現を目指して

    「人と防災未来センター」では平成14年4月のオープン以来、阪神・淡路大震災の経験と教訓を風化させることなく継承して、今後の大災害に備えた減災社会の実現を目指して様々な取り組みを続けています。館内では大震災の関連展示をはじめ、災害対策専門研究、防災研究、災害発生時の被災地支援など実践的な防災・減災活動の推進拠点として活動を続けています。具体的には20年前、神戸で何が起こったのか またどのように復興を遂げてきたのかを映像や実物資料を通じて来館者に伝えています。また東日本大震災の発生以降は津波対策への関心も高まってきていることを感じています。そして今、館内ではメモリアル特別展示「1.17阪神・淡路大震災20年 伝えよう未来へ世界へ」が開催中です。震災発生当時の雰囲気が感じられる未公開資料が展示されていたり、今後近い将来に起こるだろうとされる「南海トラフ巨大地震」の被害想定を記した展示が行われています。詳しい内容はこちらで確認できます。
    東日本大震災のあと、津波についての関心が一般的に高まっているように感じています。大津波の前には必ず大きな地震の揺れに襲われます。地震対策、特に建物の耐震化、室内安全対策が『防災の基本』です。自分たちの命は自分もしくは家族で、あるいは地域コミュニティーで守る。いわゆる「自助共助」ということが重要になります。これからの生活に阪神・淡路大震災で学んだ教訓を活かしてほしいと思います。

  • 神戸市立須磨海浜水族園 飼育展示部 副部長

    大鹿 達弥様

    市民の方々に愛される水族園を

    震災でライフラインが止まりたくさんの魚たちが亡くなってしまいました。また、避難所ではなかったのですが、周辺住民の方々がこのスマスイへ避難され、不慣れながらも、「とりあえず落ち着いてもらえるなら…」と思い、一生懸命対応しました。そんな状況の中、「憩いの場所としていち早くオープンしてほしい」という要望をたくさんいただきました。当初は、魚もいないし、2年ぐらいオープン出来ないのでは?と考えていましたが、全国の水族館から「ウチの魚を使って」とたくさんのご支援をいただき、震災から3ヶ月後の4月に、再オープンすることが出来ました。
    今後語り継いでいかなければと思うことは、"地域の心構え"です。それが全部に繋がると思います。これからは、神戸市民の方々にいつまでも愛される水族園をどうキープしていくかを考え、楽しい魚たちをスマスイで飼育出来るように、全国を駆けまわりたいです。

  • 六甲山ふれあいのまちづくり協議会 委員長

    北野 勇様(きたの いさむ)

    六甲山をより魅力ある山にしていくために

    六甲山にはバブル時代、山荘や企業の保養所があり、大変賑わっていました。しかし、バブルの崩壊によってそのような施設が次々と閉鎖されてしまいます。それに加えて1995年1月17日(土)に発生した阪神・淡路大震災の影響で六甲山を訪れる観光客はさらに激減していきます。昔のような六甲山の賑わいを取り戻すために「各観光事業所などで 六甲摩耶観光推進協議会が構成されて、イベントを打ち出しています。また、六甲山の歴史を広く一般の方にも知ってもらいたいと思っています。」例えば六甲山の道の一つ「アイスロード」。この「アイスロード」は昔、貴重品であった「氷」を切り出して六甲山から街中へ運ぶ際に利用されていました。明治時代はまだ冷蔵庫で氷を作ることが出来なかったので、非常に高値で取引がされたという歴史的な背景があります。このように六甲山にはその歴史と深く結びつきのある道がたくさん存在しています。今は神戸の観光資源としての役割が大きいですが、昔は街を発展させる上で必要な資源を運ぶ交通の要所でもあったと思うとおもしろいですよね。
    20年後の六甲山の理想の姿は?
    「小学生や中学生といった若い世代の方にも六甲山の素晴らしい自然に触れて、親しんでもらいたいと思います。また、六甲山に来ると心が癒される、次回も訪れたいと感じてもらえる山であってほしいと思います」

  • 異人館うろこの家グループ 企画・広報セクションディレクター

    崎原 朝香様

    うろこの家から皆さんへ

    私達異人館うろこの家は過去に阪神大水害、第二次大戦、そして大震災と、3つの大きな災害を乗り越え、今も神戸を代表する観光のランドマークとして山の手にしっかりと神戸の街を見ながら建っています。もちろんこの災害を乗り越える為には、人々の熱い思い、力、技術が不可欠だったと思います。こうやって人に守られながら、人との"つながり"で生き続ける異人館はこれから10年、20年、100年後も同じ場所で神戸の街を見守りながらしっかりと建っています。もし皆様の中で元気が必要な方がいらっしゃったら是非うろこの家にいらして下さい。2階から見える、災害を乗り越えてきた神戸の街、がんばっているKOBEを見ていただくときっと元気が出ると思います。KOBE!頑張りましょう!

  • 株式会社 神戸国際会館 総務部長

    山形 晃正様

    これからの神戸の街

    言い古されたことですが、神戸は美しく、おしゃれで、感性豊かな街です。昔から世界のいろいろなものを受け入れ、新しくて、素晴らしいものに育てていくことができる。神戸はそんな街だと思います。それに加え、震災の経験から安心や安全への心配りや、人の優しさ、といったことの上に、心華やぐような新しい取り組みもどんどん行っていく、そういった街になってほしいと願います。

  • 神戸アーカイブ写真館 代表

    東 充様(あずま みつる)

    神戸アーカイブ写真館を通して神戸の歴史を未来の神戸市民やその他の人々へ伝えていきたい。

    震災で神戸に関するいろんな写真、資料を無くしました。当時はこういったものの保存体制が整っていませんでした。震災を機に、神戸アーカイブ写真館という施設を作ることによって資料や写真、情報の収集に積極的に取り組み、神戸の歴史を蓄積して多くのみなさんに活用していただきたい。そしてこの神戸アーカイブ写真館を通して、神戸の歴史を未来の神戸市民やその他の人々へ伝えていくためにも、存続のために、後継者作りにも力を入れています。
    私個人としては、70歳を過ぎても大好きな山に登ったり、健康のために続けていきたいと考えています。

  • Kiss FM KOBE
    リスナーからのメッセージ

    1.17プロジェクトへお送りいただいたメッセージの中から一部を掲載しています。

  • 当時は20歳。販売業で三宮の店舗で働いていました。大阪への転勤を余儀なくされましたが、街を一つ超えただけでまるで影響がない日常に違和感を覚え転職を決意しました。現在は建築関係の仕事についています。耐震性のある建築物について勉強中です。あの経験をしてからは「決して後悔しない人生を歩む事」が目標となりました。

    加古川市Gankoさん

  • 当時は コンピューター関係の仕事をしていました。県内の企業システムが使えなくなり復旧作業で、徹夜、不眠、不休で仕事をしました。また、そんな状況のために自身の担当以外の分野も手伝う事に。社内の皆が出来る事を一つ一つこなしなんとかやり遂げる大切さ、また、社外の方々の協力、気遣い、差し入れなどから、人の優しさなども実感しました。

    箕面市猫丸さん

  • 5歳で阪神淡路大震災を経験しました。そして、小さい時から、頑丈な家や街を作ろうと仙台の大学に進みました。21歳で東日本大震災を経験しました。そこで、ものをつくるより、コミュニティをつくらなくてはいけないと実感しました。今は、過疎や災害など、問題を抱える地域を助ける仕事をしています。もうみんなが悲しい思いをしないために。

    神戸市中央区koimin1228さん

  • あの大震災から20年も経ったなんて、でも、長いようで短い、また、短いようで長い年月です。神戸から少し離れた場所にある我が家は、親戚の避難所となり、職場では、水の供給の無い人達への、水汲みの日が続きました。何かしら、少しでも、役に立てたかと、思っています。また、神戸のルミナリエの灯は、震災とは関係のない人にとっては、ただ、美しい光かもしれませんが、神戸の人にとっては、灯のひとつひとつが、亡くなられた方々の魂のようにも思いながら、涙しながら、見つめた光… 20年を迎え、様々な想いが、胸に溢れます。

    加古郡ともしびさん

  • 私は当日、小学2年生でした。姫路に住んでいましたが、大きな地鳴りと揺れを覚えています。震災の数日後、親戚が3人やっとの思いで避難してきました。3人と毛布3枚少しの着替えだけだったのを覚えています。私の家は5人家族。3DKの家に8人で生活をしました。住宅ローンを抱えながら仕事を無くした親戚を元の生活に戻れるまでの間、養い助けた両親。私が大人になってから当時の親の状況を初めて知りました。そんな事とは知らず、私は従姉と学校に通え、神戸から他にも避難して来た子達と友達になりと少し嬉しかった思い出もありますが、今の自分に出来るかと言われると、どうなるか想像もできません。神戸は私のふるさとではないけれど、たくさん思い出があって、行くと元気になれる大好きな街です♪大人達の底知れぬパワーがきっと神戸を蘇らせたんだなと思います。そして、そんな強く生きてきた大人を見てきた私達だからこそ、今度は私達がそんな姿を子供達へ示していく事が出来るのではないかと思います。きっとそれが震災の事を忘れず、後世に受け継ぎ、新しい神戸を作り続けて行く大切な要素だと私は感じています。

    姫路市まーこさん

  • 地震が。揺れが収まり机を見ると、ガラス戸をはめ込んだ本棚が落ちてきていました。直撃していればケガで済まなかったかもしれません。そして主人は本来であれば駅に向かい、歩いている予定でした。しかしサボるつもりで自宅にいたところ、揺れに襲われたそうです。通学途中のビルが倒壊しており、登校していれば、その下敷きになっていたかもしれないとのことでした。そんな風にしてお互いに紙一重で助かった二人が偶然出会い、今は家族として暮らしています。二人の子供にも恵まれました。子供が生まれるまでは、あまり防災について深く考えていなかった私達。しかし一人目が生まれてからは、家族を守るためにできることを考えるようになりました。防災グッズの見直しをし、家族の集合場所を決め、息子にも「お父さんかお母さんが必ず迎えに行くから、それまでは保育所の先生と一緒に待つように」と言い聞かせています。最近テレビで当時の映像が流れることも多く、私達も幼い息子に話す機会が増えました。学校等で教えてもらうのを待つだけではなく、子供達の身近な存在である親や祖父母が経験を話していくことで、子供達にも受け継がれ、また防災について考えるきっかけになるのではないかと思います。私達も二人の子供に、これからもずっと話し続けていきます。

    神戸市東灘区いくにゃんさん

  • ビルのなくなった三宮の復旧工事で、見渡す限りのルミナリエの美しさに涙が出たものです。人間って一人では何もできない。生きていけない。心も弱い。けれど、一丸となるとき、1人+1人の力は物凄いパワーに、優しさに、強さになるのですね。これを忘れずに生きていきたいと思います。子どもにも、災害時は逃げのびること、生きていれば巡り会えること、話しています。この災害だけでなく、命を失った方々のご冥福をお祈り致します。

    加古川市蒼生人さん

  • 1995年頃、2歳でした。住んでいる場所は姫路です。ここも被害はありました。恐ろしく揺れて、テーブルの下に隠れたと、母から聞かされ、神戸から姫路の距離まで激震が届いたのは、すごく怖いと思いました。それ以上に神戸在住の方々は恐怖以上に悲しみを感じられていた。実際に体験はしていません。何を言うても、上面な言動に思われますが、現実的にその悲しみ、痛み、苦しみがあったこと、生涯、歩みを共に考えていきたいです!!!神戸は兵庫の宝!!!

    姫路市dragonさん

  • 震災から20年。当時私は幼稚園児。神戸市兵庫区の母の実家に住んでいました。大きな揺れと共に母に布団を被せられたことをよく覚えています。そして、神戸の復興と共に20年の時を重ねてきました。私は母や祖父、祖母、叔父一家などに守られており、当時はわからなかった痛みや苦しみが沢山あったんだと、今、大人になって思います。私たちは震災の記憶はぎりぎり覚えてる世代ではないかと思います。この辛い記憶を大事にして、これからも生きていきたい。

    神戸市兵庫区みーしゃさん

  • 阪神淡路大震災から早20年が経ち防災意識が薄れてきてはいないでしょうか。地域の消防団に所属していますが、皆さんに再認識していただきたいのは日ごろから自らの命は自らで守る意識を持っていただくという事だと思います。

    高砂市たっくんさん

  • 実家の西宮では家族は無事でしたが、家が半壊でその後取り壊しました。この20年を節目に、今一度震災について考えてみたいと思います。

    大阪市淀川区なかじぃさん

  • 震災当時、中学生だった私は、京都のマンションに住んでいました。京都でも、寝ている間に震度5という非常に強い揺れを感じました。マンションの廊下にも亀裂が入っていました。あれから20年が経ち、自分の息子も含めて、震災を経験していない子どもたちにしっかりと地震の脅威や恐ろしさ、ライフラインが途絶えた中、どのようにして生活していたのかなどを伝えていきたいと思います。

    神戸市北区バリカタ マシュマロさん

  • 私は当時 中学3年生でボランティアの一環として、ペットボトルの水や衣類を送ったりしていました。おばあちゃんの育った芦屋は、跡形なく消えたと聞きました。みなさんの頑張りで、神戸が生き返ったのだと思うので、すごいと感じています。

    兵庫県加西市りちゅりちゅさん

  • 20年前、私は父と一緒に寝ていました。三連休が終わり、「明日から学校だー」と思いながら寝たのを覚えています。朝方(あさがた) 聞いたことのない地鳴りと揺れで目が覚めました。何が起きたか分からなかったのですが、すぐ横の父が覆(おお)いかぶさってくれたことは、はっきり覚えています。父が守ってくれました。幸い私の住んでいる地域は被害が少なかったものの、あの揺れと音の恐怖は忘れません。また、父が守ってくれたことも忘れていません。

    神戸市北区はろかよさん

  • 表面的には美しく生まれ変わった神戸ですが、まだまだ問題は山積みです。震災はまだ終わっていないと思います。これからも震災のことを折に触れて思い出し、震災を知らない若者たちに震災のことを語り継ぐなど、自分ができることを少しずつでも頑張っていかなければいけないと思います。

    神戸市垂水区うさこちゃんさん

  • 震災当時、ROLLING STONESの「Mixed Emotions」の歌詞にある"迷っているのはお前だけじゃない"というフレーズにずぶん勇気ずけられました。

    たつの市カナメさん

  • 僕の誕生日は震災が起きた1月17日です。なので、誕生日がくる度に黙祷してからハッピーバースデーが通例となっています。今年も誕生日までもうすぐ!みんなが良い日になりますように。

    丹波市はるやんさん

  • 今回の117プロジェクトを聞いて、改めて神戸の人達の復興への力強さを感じると共に、神戸は素晴らしい街だと思いました。そして、震災の話を語り継ぐことの大切さ、防災・減災の大切さを知りました。

    神戸市須磨区ぶたぶたさん

  • 震災当時3歳でした。母に引っ張られて、家を出たことしか正直、覚えていません。報道でたくさんのことを知って、備え、家庭内の決め事、非常に大事だなと感じました。

    姫路市どんとまりこさん

  • 三木市は神戸ほど大きな被害はなかったので、地域の集会所とかに、避難所へ届けるおにぎり作りに行っていました。いつも必ずいるおばあちゃんが「頑張れ。負けたらあかん。」と言いながら、目を潤ませて、おにぎりを握っていたのが忘れられません。

    三木市みきのタコさん

  • 高校一年生。湊川で全壊。あまりの周りの凄さに英単語テストの勉強してなかったから助かったなぁって、カラ元気で言うしか出来なかった。無我夢中でみんなで助け合った思い出です。今でも実家に戻ると仲の良い地域です。何事も一生懸命頑張りたいです。今は子育て☆

    神戸市灘区ひこママさん

  • 私は今20歳で震災と同級生です。そして、浪人生です。昨日は成人式でしたが、センター試験前なので出席することができませんでした。街中に沢山いた晴れ着の人達を見たら、胸が苦しくなりました。でも自分のやることはひとつで、覚悟の上、決めた道なので弱音は吐けないと思いました。後悔ないようにやりきりたいと思います!

    揖保郡まりこんさん

  • 震災から20年。日々の復興の努力で、私達を温かく迎えてくれる美しい素敵な街、神戸!なかなか訪れることは難しいけど、いつも応援しています!神戸は兵庫県の誇りです!

    豊岡市すまいるさん

  • 神戸市中央区に住んでいた当時付き合っていた彼女(今の奥さん)と連絡を取る暇もなく、連日仕事で須磨や長田や中央区を走り回っていました。彼女の元気な姿を震災後に見た時に、手渡しで遺書をもらったことが一番印象に残っています。これからも彼女のため、娘と息子のためにもうひと頑張りします。

    佐用郡opiopiさん

  • 矢野顕子の「春咲小紅」を初めて聞いた時、「春咲神戸に」と聞こえました。震災から20年。自宅は倒壊しませんでしたが、水道・ガス・電気が止まって、食べることに困りました。寒くても暖をとることができなかったのですが、気が張っていたのか風邪をひきませんでした。震災当日も、明石市のお隣のスーパーで、出来立てのオムライスを買ったことを思い出します。災害のない日々が一番幸せですね。

    明石市さっちゃんさん

  • 1994年12月末に、この世に生を受けて、すぐに震災を体験した姪が昨年末に20歳を迎え、ダンスにアルバイト、学生生活をがんばっています。

    神戸市北区linchangさん

  • スマホやSNSなど便利な道具が最近、増えましたが、一番大事なのは人間の本質とか感性だと私は思っています。20年の日を決してイベント化せず、粘り強い放送をこれからも続けてほしいです。

    和泉市あむろなみへいさん

  • 二度とあんな事があってはいけませんが、他人事ではないといつもこの時期に防災グッズの点検をしています。そして改めて、ラジオのありがたさを感じる日でもあります。

    宍粟市田舎のぶーりんさん

  • 震災の時は、子供を連れて実家の明石にいました。すごい揺れにテレビが足元で倒れ、食器棚の物がガチャガチャと割れ、慌てて子供達に布団を頭までかけて覆い被さりました。幸い、被害は少なかったですが、ライフラインが止まっていました。後に惨状を見て涙があふれました。その後、水をもらいに播磨町のおばの家に向う時、ずっとKiss FMに流れる曲に胸が熱くなりました。

    高砂市あんころもち子さん

  • いま頑張っていることは震災の翌年に発病した病気を今も治療していることです。幸い、命を左右するほどの病気ではありませんが、通院と投薬を19年続けています。この間、医療機関を転々としてきましたが、焦らずに治していきたいと思います。

    神戸市西区神戸の泉さん

  • 私は当日高校2年生で、大阪にいたのですがものすごい揺れで目覚めました。家の中や周囲は幸い大きな影響もなく、学校へも行ったのですが、先生や電車通学の子はこれず、臨時休校。そして、帰宅後に見た阪急伊丹駅や焼けた長田の町の映像を見てものすごく衝撃を受けたのを覚えています。翌年の春、私は神戸の看護大学に進学しましたが、ボランティアで仮設住宅を訪れ、震災が被災者の心に与えた大きな傷を知りました。神戸の街は山があって、海があって、でも都会で、本当に素敵な街です。震災の怖さを忘れずに、日ごろから防災意識を高めていたいですね。

    姫路市月のしずくさん

  • あれから20年 目まぐるしく神戸の景色と共に、自分の人生も変わり続けました。今言える事は、あの日を生き延びて来れたからこそ 自分が有ると言う事です。辛く悲しく絶望感に苛まれていましたが、生きる意味を知る事が出来た大切な思い出です。

    神戸市東灘区めぐぱぱさん

  • あの日、長田の街から黒い灰が住んでた地区に沢山降ってきました。隣のおじさんが、母親を押入の戸に乗せて泣きながら帰ってきたのを、忘れられません。亡き父は、大開通の親友の所まで歩き、着ていた物全てを、交換して帰ってきました。神戸は都会ですが、隣近所の繋がりが当時は強かったと思います。食べ物、悲しみ、笑いを全て分かち合って、今生きさせてもらっています。悔いのない日、普通が大事だと思う日々です。

    神戸市長田区せんとさん

  • 震災は未経験ですが、震災をきっかけに学んだ事は防災の意識です。人と防災未来センターでの震災体験や、当時の体験談を聞くなどして、震災の実体を探ったりもしています。

    赤穂郡kobeさん

Radio programラジオ放送

2015年1.17プロジェクト特別プログラム

※ラジオ放送はFM電波放送の他に、radiko(パソコン&スマートフォン)でお聞きいただけます。

Supporter協力者一覧

  • 平愛梨様
  • 松任谷由実様
  • 浜田省吾様
  • 角松敏生様
  • 大江千里様
  • 今村モータース様
  • 明石天文天文科学館
  • 株式会社ポトマック
  • 菊正宗
  • 株式会社神戸マツダ
  • 神戸市社会福祉協議会
  • チキンジョージ
  • 演劇集団キャラメルボックス
  • 阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター
  • 神戸市立須磨海浜水族園
  • 六甲山ふれあいのまちづくり協議会
  • 異人館うろこの家グループ
  • 株式会社 神戸国際会館
  • 神戸アーカイブ写真館

(順不同)