1080話(2016年12月10日 ON AIR)
「ひとまたぎ」

作・

杉本奈月(N₂)

出演・

平野 舞
大木湖南

  
 

もう一年をまたぐ夜、指で数えられるほどの残り時間。
夜に埋もれた月六万のアパートメント。
一階、窓のむこうには一人の住人の姿がある。
まだ、カーテンは引かれていない。
いつしか、ともに食卓を囲う仲となった一組の男女。
敷かれたままの蒲団に二人は座っている。
かけ蕎麦を片手に、
男、女と話しているようだが、人の影はないようにも見える。

  
一年前は

一年前も

ここにいた?

枕を濡らしてね

泣いて?

涙だけじゃないのよ

水分の話?

ここ

  
 

女、枕の一点を指す。

  
どこ

斑(むら)ができているでしょう

  
 

男、白い布地に何も見つけることはできない。

  
もう乾いて

蒸発なんてしないのよ

それは

油だから

火に焼かれることだってできるの

火に?

火にわたしたちは

たち?

  
 

女、窓を見やる。

  
外は寒かったのかしら

とても

どれくらい

身が凍えるほどに

凍っていない

言い回しだ

わからない

手があかぎれるほどに

一年前も?

一年前は

見せて

  
 

誰も何も見えはしない。
零度を下回る気温と人並みの体温。
窓は、その温度差に視界を曇らせている。

  
見せられない

手?

  
 

女の出した手に、男、なかなか触れられない。
手垢をつけてしまいそうで。

  
冷たいでしょう?

  
 

女、男の手を握る

  
でも

暑いでしょう?

どうして

汗をかいたから

ぼくはかいていない

人はかくものよ

でもきみは

ここは白地図

  
 

なだらかな曲面を描くシーツの上、二人は手をかざす。
雨雲が立ち込めるように、二十万分の一の地上へ暗い影を落とす。

  
はく

地上に雨は降っていたのか

地図に雨は降らない

でも汗をかいている わたしたちは

二人じゃない

ここに群(むら)ができるよりも前のこと ずっと遠くの

話を

どうして二人は 追い出されたのかしら

きいて

きいてしまったから?

いるのか?

甘い言葉に

おい

みせられてしまったから?

だから

こうして手をつないでしまったから?

はなせ!

 あかぎれていない あなたの手

  
 

男の手は、あかぎれていない。

  
涙だけじゃないのよ 汗も 鼻水も 唾液も それから

  
 

男、女の最後の言葉を聞きとれない。

  
あなたの

  
 

聞きとれないから、男は想像する。

  

何?

しない

何を?

  
 

男、開けた口を塞ぐことができない。

  
何を

  
 

その穴の底から覗くのは、女の、

  
垂らしているの

  
 

男、手のうちを、すべて離してしまう。
右手の食指が先だったのか、左手の薬指が先だったのか。
それとも、何本にも群れた白い――男にはわからない。
それでも、洪水のように。
器から大量の液(つゆ)が零れ落ちる。

  
そば

床に

醤油

汚さないで

いつから?

早く

いつから 黒ずんでいた?

汚れが床について

落ちない

「落ちないのは何?」

は?

なし

なし?

今日はなし

  
 

男、女の話がわからないでいる。

  
一年前は

一年前は

ここにいた?

したい

したい?

あったことに

あった?

  
 

女、既に男を無視して、窓の外を見ている。

  
帰ったら

帰ったら

どうするの?

  
 

女、一人、窓に触れる。
男よりも一回り小さく、赤みが差していた手のうち。
今日の夜(よ)も、つきない話は明かされないまま。
この「あと」は、明日(あす)の始めにも妬かれず、
ずっと、ここに焼きついていてくれるだろうか。

  
餅を焼いて

白い?

そう白くて

それから?

  
 

男、続きを口にしようとするが、
喉まで出かかっていた言葉を詰まらせることにする。

  
焦がすほうが好き?

いや

  
 

男、否定する。

  
言葉を詰まらせているんだ

  
 

女、返答はない。
窓の手形は水滴に流れ、幽かに手垢が残っているばかりである。
男、一人、身を横たえる。
気温は零度を下回り、すでに雨は雪と化している。