11話(1996年6月14日 ON AIR)

「雨の日の電話」

作・み群 杏子
雨が降っている。あいつ、まだ泣いてるんだ。
しょぼ濡れて、さらしくじらみたいに、
きしきし、泣いてるんだ。
どこかで電話がなっている。遠いような近いような、かすかな音。
夢の中から手をのばすが、届かない。
今、何時?。
昨日と今日の間で、身動き取れなくなっている俺。
止まった時間。止まった約束。ネジを巻さえすれば動き出すのに。
やっとのことで、受話器をはずす。
ぼんやりと開けた目に、モジリアニの女が、首を傾けている。
今夜はもうだめ。私、飲みすぎてしまった。
前に、何かの本で、読んだことがある。
どこかの星に行くと、そこは、雨の惑星で、最初から最後まで雨がふっているんだ。
モジリアニの女は、さびしそうに笑っている。
このだだっぴろい宇宙に、独りぼっち。
今、私は宇宙というお湯のなかで、皮の剥けたトマトみたいにつるんつるんの素っ裸になって、漂っている。
時間の闇をカンガルーが走っている。
あれは、そうだ、あいつと行った動物園だ。
カンガルーの柵の前で、まぬけなキスをしたっけ。
初めてのキスは3年前。雨の動物園。白いレインコートを着た私…。
どうして?受話器の向こうから、足音が聞こえる。
雨の中を、俺のカンガルーが走る。
タキシードに蝶ネクタイをした俺のカンガルー。
あ、走り出した。だんだん、近づいてくる。
後ろを向いて待っているのは、あれは、白いレインコートを着た、あの日のあいつだ。
いや、ちがう。あれもカンガルーだ。
カンガルーの花嫁が、白いウェディングドレスを来て、俺を待っている。
ばかなことでけんかをしてしまった。
どちらかが折れればよかったのに。どちらも強情で謝るということを知らないのだ。
電話を待って、待ちつかれて眠ってしまった。
あ、また、空耳だ。電話が鳴っている。
駅前に終電まで開いている花屋があったな。
あの時、あの人が、カバンに隠した花。あれは赤い薔薇の花だった。
私に渡そうとして、恥ずかしくて、やめてしまったという贈り物だ。
何日かたって、あの人が見せてくれた時には、花は、惨めな形でかばんの中で枯れてしまっていた。
あの人は、また買ってやるからって、捨ててしまってそれっきり。
今度こそ渡すぞ。俺はカンガルーの花婿として、
未来の花嫁に花束を贈るんだ。
電話が鳴っている。永遠にも近い、長い間。
夢の中で、何度も受話器を外しては戻す。
雨の音が大きくなってきた。
今度は一本ではない。あいつの歳の数だけ買う。今日はあいつの誕生日だったんだ。
いや、、もう昨日になってしまった。恋人の誕生日を忘れる男なんて最低だ。
仕事が忙しかったとか、疲れていたとか、言い訳をする前に謝るべきだった。
たいしたことなかったのに。別に責めるつもりはなかったのに。
泣いたふりをしていたら、何だか本当に泣きたくなってきた、
ぴいぴい泣いてしまった。
もう少しだ。もう少しであいつの家につく。
誰だろう。あれは。モジリアニの女かと思ったら、カンガルーだ。白いウエディングドレスを着て、柱時計のネジを巻いている。
いつからか止まったままの時計。
カチ、コチ、カチ、コチ…
女の声がそのまま時計の音になり、時計の音が、そのまま電話のベルの音に替わっていく
(受話器を上げる)もしもし…
俺、寝てた?