111話(1998年5月15日 ON AIR)

「失・語・楽園」

作・松田 正隆
登場人物
夫 あるいは若い男
妻 あるいは若い女
波の音。かもめの鳴き声…。
砂浜の丘に一人の男。やがて、女がやってくる。
「こんなとこにおったんですか」
「ああ、うん。」
「何してるんです?」
「見てたんや」
「何を」
「何をって、…ええと、そやから…」
「海ですか?」
「そう、そうや。…ウミや…」
「朝起きたらおらんから、びっくりしましたよ」
「何で」
「どこ行ったんやろ思うやないですか」
「どこへも行くわけないやないか」
「ま、そうやけど」
「どっか行って、死んでもうたんやないかて思うたんやろ」
「そうは思わへんけど…朝ごはんやし…女中さん待ってはるんやで…」
「そう…。」
「宿出る準備もせなあかんのですよ」
「あ、そうやったな…」
「…どうしたんです?」
「え?何が…。」
「何や、ぼーっとして」
「うん…。やっぱり55才で定年は早いんやないやろか…何や、これからのこと思うと…何をしてええんかわからんようになってな…」
「まあ、ボチボチ考えたらええやないですか…。ゆっくりしよう思うて、旅行に来たんやないですか…とにかく、今日は何も考えんと、のんびりしましょう。」
「うん…」
「ホラ、行きましょう」
「オレな、会社行かんようになったら何や色々と、言葉が出てけえへんようになったんよ。」
「え?…ああ、まぁ、最近モノ忘れ多なったみたいやけど」
「そうやねん。失語症や。…さっきも、お前が海、言うまで何見てんのかわからへんかったんや。」
「ま、そういうときもありますよ。」
「あれは何や?」
「え?」
「あれ…ほら、とんでるやないか…あれ、ほら」
「…カモメですか…」
「あ、そうや…カモメや…そうやそうや…」
「…ちょっと疲れたんやないですか。あんまり眠てへんの違います?」
「いろいろと言葉、でてけえへんようになったかわりに、妙なこと思い出してもうた…」
「何を?」
「オレ、ここに来たんは初めてやないんや。」
「あ、そうなんですか?」
「うん…」
「へぇ…誰と来たんです?」
「…誰とやったんやろ…。」
「…」
「オレ、一人やったんやろか…。いや…誰かおったような気もすんねん。…あっ!そうや…オレそいつに、あんまりそっち行ったらあかん、言うて。」
―と、はげしい波の音。
歓声をあげる若い男女。
若い男
「オイ、あんまりそっち行ったらあかんて!」
若い女
「大丈夫やて、何言うてんのん」
若い男
「波、高いやないか、アブナイやろ。」
若い女
「あんたもこっち来たらええやろ」
若い男
「いやや、ズボン濡れるやないか。ええな、女はスカートやさかい。」
若い女
「コワイんやろ!」
若い男
「コワないわ」
若い女
「泳げへんのやろ」
若い男
「泳げるわ」
若い女
「ほな、泳ごうな」
若い男
「ええ?」
若い女
「もう、ええやんか!」(とひっぱり込む)
若い男
「オオ、ちょっと、やめろや!…ああ!」
―二人、波打ちぎわではしゃぐ。
はげしい波しぶき。
若い男
「なあ!…なあ!」
若い女
「ええ!?」
若い男
「結婚しよ!」
若い女
「何?聞こえへん!」
若い男
「結婚しよ!」
若い女
「…うん!ええよ!」
若い男
「本気にしてへんやろ」
若い女
「うん、してへんよ!」
若い男
「本気やで」
若い女
「何言うてんのガキのくせに」
若い男
「何やて!」
若い女
「キャーッ」
―波の音。じゃれ合う二人。
若い女
「あ、あの人…」
若い男
「うん?」
若い女
「ほら…あの男の人…砂の上の…手、ふってへん?こっちに…」
若い男
「ほんまや。」
若い女
「知り合い?」
若い男
「いや。誰やろ。…どないしたんやろ…」
若い女
「…ひとりぼっちで淋しいんやないやろか…」
若い男
「うん…。」
若い女
「オーイ!オーイ!」
若い男
「オーイ」
―二人、てをふりつつ、声を出す。
それにかぶせて、妻と夫の会話。
「さっ…ほら、行きますよ」
「え?ああ、うん…」
「…どうしたんです?」
「いや…ホラ…あのこたち…」
「え?何です?」
「…いや…」
「じゃ、先に行ってますよ」
「…どこに」
「え?」
「どこに行くんや、お前…」
「もう、何を言うてるんですか…。ほんまにもの忘れひどうなったんとちがいます?」(と、去る)
「…うん…」
―「オーイ、オーイ」と、夫を呼ぶ声。
やがて、波音がそれをかき消す。