141話(1998年12月11日 ON AIR)

「朝食は冷めないうちに」

作・花田 明子
2DKのリビング。
まず最初に聞こえてくるのは何かを掻きまぜる音。
バターはフライパンの上でゆっくりと溶け始める。
薄い茶色を出し始めたバター。
掻きまわされていた何かがフライパンに一気に落とされる。
スクランブルエッグだ。塩を少々。ブラックペッパーは粗びきのものを。
続いてコーヒーメーカーの噴射音。
トースターはいつも「チーン」と小気味好い。

台所はせかせかと動くスリッパの音。約1名。
その合間をぬって聞こえてくるのは、朝のテレビ(もしくはラジオ)。
トースターを開ける音。
皿に2枚のトーストが滑りこむ軽快なリズム。
それは、変わらないある一日の朝。
時刻は朝、7:12きっかり。
カップにコーヒーを注ぐ音とともに、トイレの水の流れる音。
トイレのドアの音が閉まる。近づいてくるスリッパの音。
宏之
(テーブルから目を上げて)大丈夫か?
恵津子
ん……いや……うん。大丈夫。
宏之
(すぐそのあとを受けて)なわけないな。まあ、食え。
恵津子
ああ、スクランブルー。
(この「ああ」はスクランブルエッグを見つけた「あ」)
宏之
うん。今朝はえっちゃんの心の揺れに合わせてまぜにまぜぬいたスクランブルエッグだよ。
恵津子
あ、そうなんだ。(コーヒーに手を伸ばす)
宏之
バターも駅前の喫茶「オランダ」のマスターのお勧めのフレッシュバターだろ?
恵津子
フレッシュ?…それいつもとどう違うの?
宏之
決まってるだろ。フレッシュだけに新鮮でうまさが1.8倍なんだ
恵津子
1.8倍?中途半端ね。
宏之
あ、違うか。1.8倍はねーだん(値段)かぁ?(世界に盾つくくらいご陽気に)
一瞬の間
恵津子
ええ?
宏之
しかしもちろんこのバターにも弱点はある。そう、もう分かるね。フレッシュなだけに日持ちがしないんだ。
恵津子
何でそんなもん買うのよ。
宏之
えっちゃん、小さなことにこだわるな。大切なのは瞬間をどう生きるかだろ。
恵津子
…ええ?
宏之
とにかく「うわぉ、いいの?」「本当にいいのね?」って小踊り(こおどり)しちゃうぐらいうまいんだ。
恵津子
(宏之の元気一杯に精気を吸いつくされるようにつぶやくように)何でバターに確認とるのよ。
宏之
そしてこのトースト。今日はいつもの160円の食パンじゃないよ。「小麦が違う。色が違う。匂いが違う。あ、あん、あんーあーん。」(山口百恵の「イミテーションゴールドの節で)まさに立派。
皆目素敵。
恵津子
何言ってんの?
宏之
けれど300円だけの価値はある。
恵津子
……。
宏之
あ、朝からごめんね。お金のはなしばっかり。
でも今日の笹山家のエンゲル係数は高いよぉー。
それは例えるならアメリカはタコマにあるマウント・レーニエもまっ青の高さ。
恵津子
例えなくていいわよ。
宏之
さらにレーニエ山は元は大爆発を起した火山。ま、今は休火山なんだけどさ。あれっ、死火山だったか?
恵津子
どっちでもいいわよそんなこと。
宏之
とにかく一見いつも食卓を飾るメンバーと変わらぬように見えて、その実選びに選びぬかれた、いかしたプロフェッショナルたちだ。
恵津子
だからいいったら、そんなこと。
宏之
いいわけないさ。だって今日はえっちゃんの大事な日だろ?夫として主夫として当然の義務さ。
恵津子
だから、
宏之
どうしたんだ、えっちゃん。そんな浮かない顔してたら主任として、みんなから「光ってる」って言われないぞ。
恵津子
……。
宏之
んん?(「どうしたの?えっちゃん」という意)
一瞬の間の後、
恵津子
あのね、今日が初日なのよ。
宏之
そうだよ。
恵津子
うちの会社は未だに封建社会でたかが主任、されど主任。
宏之
え?
恵津子
(もちろん幸せを少し知覚して)いやひろくんのその根拠のないエネルギーはどっから来るのかと思ってさ。
宏之
そんなの決まってんじゃん。
恵津子
ええ?
宏之
朝食。
恵津子
朝食?
宏之
倒れ込むように疲れて寝てしまった次の日の朝に、えっちゃんと食べる朝食、つまりブレックファーストですな。
恵津子
……(おいおい朝からそんな恥ずかしいこと言うなよというように笑って)
何だ、そりゃ。
宏之
おらおら、冷めないうちに食ってくれ。
恵津子
はいはい。
宏之
はいは一つな。
恵津子
食器のかたかたとふれあう音。
宏之
倒れ込むように疲れて寝てしまった次の日の朝に、えっちゃんと食べる朝食、つまりブレックファーストですな。
そこには二人の朝食を食べる音。
テレビ(ラジオ)の音はきのきいた朝のBGMに近い。
おしまい