165話(1999年5月28日 ON AIR)

「ゆうびん」

作・久野 那美
やっと暑さのひいてきた夕暮れの坂道。
チリン。どこからか風鈴の音がする。
ふとふりかえると、大きな赤い自転車を押して、女が一人坂道を上がってきていた。
こんにちは。
こんにちは。
(チリン。ベルの音)
大丈夫ですか?
ええ。ありがとうございます。
しばらく続きますよ。
はい。慣れてますから、大丈夫です。
暑かったですね。
ええ。でも、だいぶ。
風が出てきましたからね。
ええ。
自転車を押しながら並んで坂道を上っていく
めずらしいですね。そんなに赤い色の自転車…。
郵便屋なんです。
郵便屋。そうですか。
郵便屋に見えませんか?
いや…そんなことありませんよ。
気にしないで下さい。やっぱりね。荷物がないとね…。
荷物?
この袋。朝は郵便でいっぱいなんですけど。
毎朝。ポストの中からどっさり出してきて。この袋にいっぱい詰めて。
ひとつひとう、宛名のところへ届けに行くんです。
大変なお仕事ですよね。
ええ。
今日はもう?
…ええ…。
袋の中は空ですか。
…いえ………
ああ、まだ、これからどこかへ届けに行くんですか?
………はい。
大変ですね。
はい。
ひとつだけ残るんです。
は?
どうしても、届けることのできない郵便がひとつだけ、残るんです。
…どうして、どうして届けることができないんですか?
宛先が書いてないからです。
なるほど。
あれだけたくさんの郵便を運んでいればそういうこともあるんでしょうね。
差出人は誰なんです?
差出人も。
差出人の名前もないんですか。
ええ。
よっぽどあわてていたんですね。
…そうでしょうか?
だって…。
(チリン、自転車のベルを鳴らす)
一日の仕事が終わってうちへ帰るとき。この手紙だけが鞄の中に残ります。
いつも、いつも…。
…そういう手紙も、持って歩くんですか?
ポストに入れられたものは、全部、届けることになっています。
届けると言っても…
ゆうびんを届けるのが私の仕事です。
ですけど…。どこへ?
わかりませんよ。だからずっと持って歩いてしまうんです。
ずっと?
ええ。ずっと。
それは、そんなに以前に出された手紙なんですか?
ええ。ずいぶん昔。
いつ?
さあ。もう、覚えてません。
(男、しばらく考え込んでいる。)
(風が吹く。チリン。音が鳴る。)
どうしたんですか?
いえ。
そうですか。
いや。その。(思い切って)それは、私のところへ来るはずだった手紙なんじゃないかと思うんです。
そうなんですか。
きっと…。
そうなんですか。
来るはずだった手紙を待っていたことがあります。
ずいぶん昔のことです。
待ってたんですか?
だけど…届かなかった。
届かなかった。
だから、わたしは…
でも、ほんとうはちゃんとポストに入れられていたのに、何か事情があって届かなかったのかもしれない。そういうこともあったのかもしれない。今始めてそう思いました。だとしたら…。
だとしたら?
私は……(考え込んでいる)
でも、その手紙は届かなかった。
え?
届かなかったんですか。
いや…
どうしたんですか?
(なぜか困っている)
どうしたんですか?
あなたも。
え?
この話をすると、聞いた人はみんなあなたと同じことを言います。
同じこと?
そうなんです。同じこと。でも、だけどね。
私が届けられなかった郵便は、このひとつだけなんです。
え…
長い間
やがて風が吹く。チリン。
もしかしたら…あなたは…その手紙を…、正確に宛名のところへ届けているのかもしれません。
もしかしたら?(憤慨している)
…私は郵便屋です。宛先へ正確に郵便を届けるのが仕事です。
…すみません…。
(チリン)
あなたのところへ届くはずだった手紙なのかもしれませんね。
……はい。
(チリン)
さて。(自転車にまたがる)道が平らになりました。私、行きます。
…あ…はい。
さようなら。
さようなら。気をつけて。
ありがとうございます。大丈夫です、慣れてますから。
女は軽やかに自転車を漕いで行ってしまった。
風が吹き抜ける。チリン。風鈴の音が、遠くで鳴っているのが聞こえた。
昼間はあんなに暑かったのに。夕方の風は心地いい。
もうすぐ、日が暮れる。明日も暑くなりそうだ。