第262話 (2001/4/6 ON AIR)
「はなぐもり」 作/深津篤史

  風がふいた
なにしてんの
四月の青い空、雲はうすく流れ時おり風がふきぬける。ももいろのかすみ、午後三時を告げる鐘の音は
  と、鐘の音
それは灰色のオフィス街のなかにこつぜんと現われたこの桜の園のように物悲しく陽気だ。いそいそと給湯室にかけこむ働く女性たちの姿が目にうかぶ。ひときわ高いガラス張りのビルにうすぐもりの空。あの窓の向こうで一体何人の男達がぼんやりこちらを見ていることだろう。
  女が一つおおきなあくびをした 
いやいや、そんなところで男女の区別をしてはいけない。窓の向こうの働く女達。一つ大きなあくびをして、「寝不足か?さては」なんて上司の下昇したセリフを笑ってかわす。給湯室にかけこむ男達・・・いや、これは想像がつかない。
何か、楽しいこと、ない?
ないなあ、ちっとも何ていいながら人数分のコーヒー、ティースプーン一杯ずつ、いや、そういや、昨日のあの店の子とはどうなんよなんて返して、ポットのお湯を注ぎいれる同僚の少しあきらめたような笑顔。カップの中の熱いコーヒーの香りはインスタント。一時の心の平おん、人生をごまかすにはちょうどいい香り。何か楽しい事・・・。
ない?
やはり想像がつかない。
何が?
給湯室は女の領域だ。黄色のにぎわい、甘い甲水のにおい、私はお茶汲みするために会社に入ったんじゃないのよ。なんてテレビや何かで聞きなれたセリフはきこえない。それは黄色のにぎわいにかくれて、息をひそめる私は・・・。
お花見?
花美の陣とりをするためにここに入ったわけじゃない何てことはいわない。息ぬきにはちょうどいい。四月の青い空。雲はうすく流れ時おり風がふきぬける。ももいろのかすみ。
なに、してんの。
え。
お花見。
振り返ると女がいた。女というにはまだおさなさの残る少女・・・いや、どこか物うげなほほからあごのラインが彼女の年齢をあいまいなものにさせている。
横、すわってもいい?
私はうなずいた。それきり彼女は黙ってしまった。春の陽ざしが彼女のおくれ毛を金色にすかしている。私は横目で彼女をみていた。はたから見ればさもおかしな取り合わせに見えた事だろう。
のまへんの。
え。
ビール。
私のかたわらの缶ビール。何か気がひけてのまずにおいてあった缶ビール。気がひけて…何に。誰に。
何か。
え。
何やろ。
彼女は少し笑って、ちょっとしたイタヅラを思いついた子供のような目をして、それから黙ってしまった。のまずにおいてあった缶ビール。水滴が午後の陽光をはねかえす。それは。
まだひえてるぞぉー。
これ。
っていうてるみたい。
ああ。
のまへんの。
ああ。
ふうん。
彼女はさほど残念でもなさそうに視線を戻した。その先にひときわ高いガラスばりのビル。青空、流れる雲ももいろのかすみ。
きれいな。
ああ、とぼんやり答えてふと気付いた。私は何かに気がひけてのまずにおいておいたわけではない。夜、けんそうの夜、私もその仲間入りをする。騒ぎ、うたい、人生をひとときごまかしてみる。今からその準備をする必要もない。四月の空は青く大通のクラクションはももいろのかすみに遠ざけられる。
それだけ?
え。
それだけなん。
いや。
これな。
うん。
おそなえもんみたい。
おそなえもの?
うん。
女というにはまだおさなさの残る少女・・・いや、どこか物うげな彼女のほほからあごのライン。
ちょうど桜もさいてるし。
彼女は。
誰でもないよ。
え。
  風がふきぬけた
ふり返った彼女の嘉雄をももいろのかすみがおおいかくしたようにみえたその時。
のんじゃえ。
え。
おそなえもの。あんたの代わりにのんであげる。誰でもないあんたの代わり、誰でもない私が。
四月の青い空。雲はうすく流れるももいろのかすみ 私は。
何か楽しい事ない?
 
              了