303話(2002年1月18日 ON AIR)

「こぶしの地球」

作・樋口 美友喜
どこかの何かの乗り場の事務室で
係員が旅人の指をこじあけようとしている
係員
…く~…、うー…っっっ…はぁ…はぁ…。
旅人の左手はかたく握り締められている
どうやっても開かない
旅人の大きな溜め息ひとつ
旅人
ねぇ、もういいかな?
係員
駄目です。
旅人
もういいじゃない。
係員
規則ですから。
旅人
細かいねぇ。たかがこれくらい…。
係員
ちゃんと見せてもらわないと、乗せられませんよ。
旅人
だからあんたが気にするようなもんじゃないって。
係員
じゃ、どうして開けて見せられないんですか?お客様のその左手。グーをパーにするだけでしょうが?ん?ほら早く、くー…っっっ!
係員もう一度挑戦してみるが
係員・旅人
くーーー……っっっつ…!
係員
なんて力なんだよ。やっぱり後ろめたいもん持ってるから見せられないんだろ。
旅人
やだ、もうこんな時間じゃない。
係員
あなただって時間間に合わなくなって乗り遅れたら嫌でしょう?だから……。
旅人
そうよ、こんなことしてて乗り遅れたらどうしてくれるの?ちゃんと払い戻ししてくれる?交通費だけじゃないわよ。向こうでホテルもレストランも予約してるんだから、キャンセル料もそっち持ちで。
係員
そんなところまで責任持てませんよ。
旅人
だったらもういいでしょ。
係員
よかありません。規則ですから。
旅人
私が何回旅行してると思ってんの?あんたが初めてよ、こんなにしつこい係員。今までの人はみんなOK出してくれたんだから。
係員
そりゃあ、ねぇお客様。当たり前でしょうが。以前に比べて厳重になったことぐらい知ってるでしょう?素知らぬ顔して誰がどんな危険物持ちこむかわかりゃしないんだから。こっちだってね、命懸けで仕事しなきゃいけないんですよ。
旅人
大丈夫よ。無理矢理見ようとしなきゃ危険でもなんでもないんだから。
係員
ほーら、やっぱり危険物だ。
旅人
たかが私のこんなこぶしの中に危険な凶器が入るとでも思う?
係員
ミニ小型爆弾か、ミニミニナイフか、超ミクロ拳銃か?いいですか、その左手の拳の中身を見せてもらえないなら、絶対に乗せられませんからね。
旅人
あー…そこまで言う。へー、言っちゃうわけね。
係員
…何ですか?
旅人
本当にたいしたもんじゃなかったらどうしてくれるの?
係員
見せてくれないから想像するしかないでしょ。
旅人
お客様第一じゃないの?
係員
そう言われてもね、あなた一人がお客様じゃないんだから。
旅人
ただの酔い止めの薬かもよ。
係員
え?
旅人
願掛けした自分の生まれた年の十円玉かもよ。
係員
え?
旅人
安全に旅行が出来るようにって。知らない?旅人の間じゃあ流行ってるのよ。
係員
それなら…。
旅人
この手の中に仕舞える物なんてたくさんあるわよ。ピアス、トランクの鍵、石ころ、コイン、コンタクトレンズ、メダカに目玉、ノミの心臓、涙、雨粒、雪の結晶、誰かにもらったボタン、もうはめることのない指輪、子供の頃に使ってたビー玉、おはじき、昨日までの記憶、怒り、希望、後悔、過去、未来、世界……。
係員
あのね、口だけじゃなくてグーをパーにして身の潔白を証明してもらえません?
旅人
やーん、煙に巻こうとしたのにぃ。
係員
巻かれませんから。
旅人
どうしても駄目?
係員
規則です。
旅人
どうしても見たい?
係員
さっきからそう言ってるでしょう。
旅人
でもね、見ないほうがいいことだってあるじゃない。
係員
見なくちゃ仕事になりませんから。
旅人
見て見ぬフリって言葉だってあるじゃない。
係員
見ぬフリして、どっかで大惨事が起きたら困るでしょう?
旅人
自分の方が危険になっても?
係員
へ?
旅人
見過ごせば助かるってわかってても?
係員
何を…?
旅人
それでも見たい?
係員
何言ってるんですか?さっさと見せてください。
旅人
…あんた最近どっか旅行した?
係員
は?
旅人
だからいつごろバカンスしたかって聞いてるのよ。
係員
か、関係ないでしょう。そんなこと。
旅人
あー…、してないのね。
係員
フラフラ旅行してられるほど余裕ないんですよ。
旅人
なんならこれから一生バカンスでもする?
係員
もう本当に時間ないですから、いいですか。グーをパーに…何です?
旅人
隙間から。
係員
え?
旅人
指の隙間からね、そっとよ。そーっと覗いて見て…開けちゃ駄目。そっと、覗くだけ。
係員
隙間から…?
旅人
覗くだけでいいから。
係員 旅人の左こぶしにゆっくり顔を近づけた
旅人
覗くだけで充分でしょ?
係員 旅人の指の隙間から覗いた
係員
……!
きっと何かを見たんだろう
声にならない
旅人
あんたも見て見ぬフリしてくれるよね?それとも一生バカンスする?けどこのバカンスはつらいよ?
バタンと事務所の扉が閉められた
旅人はカツカツと靴を鳴らして歩く
係員は内線電話を取った
係員
異常なしです。時間どうり離陸してください。
旅人は左のこぶしを握り締めたまま空を飛んで行く
誰かの手の中に、かろうじて地球は存在しているのかもしれない