317話(2002年4月26日 ON AIR)
「ひとごみぶくろ」

作・

樋口 美友喜

  
 

とうりゃんせ とうりゃんせ…の機械音でいっせいに人々の足が動き出す
車よりも人のほうが力のある横断歩道で ティッシュを配る人 指輪を売る人 笑う人 無言の人
ただそこに座っている人々 音楽のような人ごみの中で呟き歩く迷子

  
迷子…間違えたんかなぁ…もういっこ向こうの筋で曲がるんやったっけ?…あれぇ、やばいわ、間に合わんやんけ。
この信号渡って、それからこの角を曲がる…あ…?
とうりゃんせ とうりゃんせ…がまた鳴っている

  
 

ガタンガタンと電車が頭の真上を通り過ぎる

  
迷子あかんわ、ぼけてんのかな。ぐるぐるまわってるだけやんけ。何ど忘れしてんねん、俺。この信号を渡って、それからこの角を曲がる…。

  
 

とうりゃんせ とうりゃんせ…がまた鳴っている
ガタンガタンと電車が頭の真上を通り過ぎる

  
迷子あれ?やっぱりまた…道聞くのもなぁ、ほとんど地元やのにおかしい…。

  
 

カン、カン、カンとまわる観覧車をふと見上げて

  
迷子こんなもん、あったっけ?……ああ、そんなん言うてる時間ないわ。誰かに聞こう。おばちゃんとかに聞いてもあかんしな、若いお姉ちゃんのほうが…あ、あのショートの子話しかけやすそうやし、でもナンパや思われたら何かシャクやな。その隣の…何や?あれ…きっしょい女やな。前髪長すぎるで、アゴまできてるやんけ。何持っとんねん?ゴミ袋か?あれ…。

前髪ちょっと。

  
 

横断歩道の向こう側に前髪がやたらと長い女が立っている

  
前髪ちょっと、あんた。

  
 

人ごみの中 もちろん迷子は自分のことだとは思わない

  
前髪あんたやん、あんた。そこのあんた!

迷子うわ、なんか叫んでるし。

前髪お前や、言うてるやろ。そこでぼけてるお前。ぐるぐる回ってる迷子!

迷子…え?

  
 

とうりゃんせ とうりゃんせ…がまた鳴っている
ガタンガタンと電車が頭の真上を通りすぎる
大声で言いながらずんずんと前髪は横断歩道を渡って迷子のほうへ走る
両手には少なくとも3つ4つの黒いゴミ袋を抱えてガッサガッサ音を立てて

  
前髪まーだ、おったんかよ。お前やって、青いシャツ着てるお前。

迷子え?俺?

前髪あんた以外におらんやんか。

迷子ええ…?なんで、俺?

前髪…って、ちょっと何で逃げんのよ?

迷子そら逃げるっちゅうねん。

前髪待ちいや、あんた!

迷子誰やねん、あいつ。

前髪止まれ…動くな!

迷子なんで追いかけてくんねん。

前髪荷物重いねんから、あんまり走らさんといてよ!

迷子知らんわ、そんなん。

前髪この前言わんかったっけ?もう最後やでって…。

迷子この前?

前髪…やっと、止まった。

  
 

ゴミ袋が重いのか 前髪は肩で息をする

  
迷子この前って…?

前髪あ、そう。それももうあかんのんか。

迷子は?

前髪あ、しゃあないわ。でも逃げいでもええやんか。

迷子そんな見ず知らずで、ゴミ袋3つも4つも持って、前髪だらだら長い人に叫びながら追いかけられたら誰でも逃げるやん…。

前髪どうせまたぐるぐる回ってるんやろ。

迷子ぐるぐる回ってんのは今で…。

前髪またまた。

迷子何やねん、あんた…。

前髪何やの?あんたは?

迷子絶対、おかしいわ、こいつ。

前髪何か、おかしいわ、ここは。

迷子あ…俺、時間ないんで。

前髪時間ないねぇ。

迷子待ち合わせしてるんで。

前髪何時に?

迷子はぁ?なんやねん、あんたほんまに…。

前髪どこで?誰と?なんの為に?

迷子あんなぁ…。

前髪その約束はいつしたん?ところで最近暖かくなった思ったらまた肌寒くなったりして。いつの間にやらごっついファッションビルなんか建ったりして、反対に壊されるビルもあったりして、流れてるよな、確実に。

迷子…あのな…。

前髪何回も言うたやん。だからこの前、これで最後やでって。後はないでって。考えやって。なぁ、いつ、どこで、何時に?誰と?それはいつのこと?

迷子時間は…急がな…だから、ど忘れして、俺…なんの為ってそれは…誰と…?いつもの場所やでって…この信号渡って、この角を曲がって…。

  
 

さっきまで絶えず途切れる事なく続いていた人の声も、車も、匂いも空気も、1枚ガラスを隔てたように遠くに聞こえてくる
とうりゃんせ、とうりゃんせも、遠くで鳴って、遠くで聞いているよう
代わりに、シャキ、シャキ、シャキシャキとハサミを動かす音がどんどん近づいてくる

  
前髪残念。

迷子え?

前髪あんたが掴むはずやったのにな。

迷子掴む?

前髪知ってた?ナンチャラの女神はな、前髪しかないねん。思い出しても振り返っても、後ろ髪がないから捕まれへんの。もう、通りすぎたで。

迷子どこで、誰と…?

前髪ちゃんと考えへんから。なんでここにおるんか。なんでぐるぐる回るんか。なぁ、人の間でわからんようになってしまうねんなぁ。

迷子いつのこと?何しに…?あれ?ちょっと待ってって。思い出すから。考えてみるから。

前髪だから、もう通り過ぎたって。もう来うへんよ。前髪は、ゴミ袋の中。

  
 

ジャキンと前髪を切り捨てた

  
前髪また荷物重くなるわ。もういっぱい。色んな人の、色んな前髪がゴミ袋ん中。

  
 

遠くだった人々の声は吹き出すようにすぐそばで聞こえ出す
いつもの、とうりゃんせ、とうりゃんせ
ティッシュを配る人、指輪を売る人、笑う人、無言の人
ただそこに座っている人々

  
迷子…間違えたんかなぁ…もういっこ向こうの筋で曲がるんやったっけ…?

  
 

音楽のような人ごみの中でかき消されて行く誰か