第320話 (2002/05/17 ON AIR)
『鳩』 作:久野 那美

彼女は手品師だった。
いつも黒いチョッキを着て、大きな帽子を頭にちょこんとのせていた。
毎週日曜日の公園で、ステッキを花に変えたり帽子から鳩を出したりして拍手を浴びていた。
彼女は人気者だった。

けれどもその日、僕が彼女を見かけたのはいつもの公園ではなく、町はずれの川原だった。
土手に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、暮れていく空を見上げていた。
やっぱり黒いチョッキを着て、大きな帽子を頭の上に乗せていた。
けれどもいつも公園で見る彼女とは、どこかが少し違っていて、僕は彼女に声をかけることができなかった。
黙って通り過ぎようとした僕に、声をかけてきたのは彼女の方だった。

彼女 あなた、いつも公園に来てる?

……うん。

彼女

知ってるわ。いつもいちばん前で見てるでしょ。

……。

彼女

手品が好きなの?

…うん。特に帽子から鳩を出すやつが。

彼女

そう。…あれはね、いちばん難しいの。

…そうだろうね。

彼女

どうしてわかるの?

だって、全然仕掛けがわからないから。
彼女

仕掛けなんかないわよ。

彼女 仕掛けのない手品がいちばん難しいのよ。
仕掛けのない手品なんておかしいよ。
彼女 ふふん。

なんだよ。

彼女

いいえ。

なんだよ…。

彼女

ずいぶん練習したの。それでもなかなか出来なかったの。

……ふうん。

彼女

何度も何度も練習したのよ。それでもなかなか出来るようにならなかったの。それがどういう事だかわかる?

……わからない。

彼女

帽子を開けるたびに、そこにいるはずの鳩がそこにいないっていう事なのよ。

鳩はどこへ行ってしまうの?

彼女

わからない。

その鳩は…もう帰ってこないの?

彼女

…帰ってこなかった。一羽も帰ってこなかった。



彼女の話は全く要領を得なかった。
僕は帰ってこなかったたくさんの鳩のことを考えてみようとしたけれど、やっぱりよくわからなかった。

…でも、僕は見たよ。君はいつも大きな白い鳩を帽子からさっと取り出して、人差し指の上に乗せて……。鳩は白い羽を広げて……。

彼女

出来るようになったの。

……。

彼女

でも…その前に、あたしはとってもたくさんの鳩をなくしてしまった。

………。

彼女

どこへ行っちゃったのかしら…。



できるようになったのならそんなことはどうでもいいじゃないか、と僕は思ったけれど、なぜだか口に出すことはできなかった。

ねえ、鳩を出してよ。

彼女

いや。

………どうして?

彼女

鳩はもう、出さないの。

え?なんで?

彼女

違うことをしたいのよ。とっても。

……違う事ってなに?

彼女

たとえば…、帽子から鳩を出したりしないようなことよ。

………。


僕は混乱していた

どうして?嫌になったの?

彼女

あなたは男の子だからわからないと思うけど。女の子にはいろいろと事情があるのよ。

????

彼女

いつまでも、帽子から鳩を出してる訳にはいかないの。

………。


突然、強い風が吹いてきた。
彼女はあわてて頭をおさえたけれど、間に合わなかった。
ぶかぶかの帽子はあっという間に吹き飛ばされて、川の面を滑っていった。
帽子が川下へ運ばれていくのを、彼女も僕も、黙って見ていた。
大きな夕日が川の面でゆらゆらと揺れていた。
こっちのほうはいつまでも流されることなく同じ場所にとどまっていた。

それから僕らは友達になった。
彼女はもう二度と、公園で手品をすることはなかった。
そんなことがあったことすら、忘れてしまったかのようだった。
その代わりに。
たしかにもっと別のいろんなことをやりはじめた。
できるようになるのには長い時間かかることもあったけれど、それでも時期が来るとすっかり止めて、やがてまた別のことをやりはじめた。
いつしかそこには僕も加わるようになった。
僕らは一緒に、いろんなことを、はじめたり、やめたりするようになった。
気がつくと。
お互いがいつも、誰よりも近くにいた。
……僕はそう思っていた。




教会の鐘の音

もう何十年も前のあの夕方のことを、僕は思い出していた。
どこまでがほんとうに僕が見た風景だったのか。
遠い昔に、僕が空想の中で勝手に作ってしまったにせものの風景なのかもしれない。
その証拠に。あれから僕らは二度と鳩の話をしなかった。
だけど僕は確かにいつかどこかで彼女と出会い、それから先の長い時間を一緒に過ごした。
彼女もまた………。

小さな教会で、今日、彼女の葬式が行われていた。
参列者は少なく、こじんまりとした身内だけの式だった。

大きな、重そうな棺のふたがゆっくりと開けられた。
次の瞬間、中からたくさんの白い鳩がいっせいに飛び立ち、無数の白い羽が空へ舞った。
あとからあとからとぎれることなく出てくる鳩の群れを前に、僕は立ち尽くしていた。


彼女

「出来るようになったのよ。でも・・・」

遠い、記憶の中の声に僕はふと我に返った。