335話(2002年8月30日 ON AIR)
「靴」

作・

作:久野 那美
ゲスト出演:重光浅子

  
 

波の音

  
あの日もこんな風に暑かった。
そして、夕暮れにはやっぱり、こんな風に潮の香りのする強い風が吹いていた。
そして、彼女はあんな具合に砂の上に座って、海を……………え?

夏の終わり
誰もいない海……のはずが、波打ち際に女が1人座っている
片手には 靴
片方だけの靴……

(振り向いて)誰?

いや……。

知らないの?今年はもう泳げないのよ。だって…。

知ってる。

何してるの?

泳ぎに来たわけじゃない。

そうみたいね。

君は……。

私も。

泳ぎに来たわけじゃない。

  
 

波の音

  
何を見てるの?

いや…。

この靴?

どうしたの?その靴…?

おかしい?

いや………。

私が、靴を、持ってるのが、おかしい?

いや……そうじゃない。

そうじゃない。

ほんとに。そうじゃなくて、どうして、片方だけ持ってるの?

かたほう。

もう片方は…どうしたのかなと思って…。

ふたつあればいいのね。

あ……。

ここにあるのはひとつだけ。かたほう。

……流れちゃったの?

何が?

だから…その、もう片方の、靴…。

……。

それとも…流れてきたの?片方だけ…。

  
 

波の音

  
そんなことわからない。(困っている)

え?

でも、どっちかなのね。

……。

片方だけ流れていっちゃったのか。
片方だけ流れて来たのか。

……。

つまり、どっちかなのね。この靴は。足りないのか。余ってるのか。

ちゃぷちゃぷ波をかき混ぜる音

(話題を変えてみたりして)
何してるの?ここで?

  
 

女はまたこちらを振り返る

  
(笑っている)

何?

泳げない海なのに。

いろんなひとに、会うのよ。ここで。(不思議そうに)

………。

失くしたものを探しに来るひと。
失くせないものを捨てに来るひと。

………。

だけど結局なんにもしないで帰っていく。

………。

しょうがないよね。海は泳ぐところだから。
(男に)今年はもう、泳げないのよ。

………………知ってるよ。

彼女はそのまま、僕に背を向けて、さっきまでと同じように遠くへ目をやった。そしてもう、振り返らなかった。
暑かった1日の向こうに、大きな太陽が染み込もうとしていた。
波の上で揺れる彼女の腰から下は、光る鱗に包まれた魚のしっぽの
をしている。もし、一揃いの靴を持っていたとしても、彼女はその靴を履く事はないだろう。だけど、片方の靴さえ持っていなかったとしても、彼女は自分の靴を手に入れる為にいつまでもここで待ち続けるかも知れない。
もしかしたら彼女は確かにこの海で、片方の靴をなくしてしまったのかも知れない。
そしていつか、もう片方の靴さえも、なくしてしまうのかも知れない。


僕はなかなか立ち去る事が出来なかった
たしかに このまま 何も出来ないまま
だけど
暮れていく海の向こうを 彼女と一緒にしばらく見ていたかった