342話(2002年10月18日 ON AIR)

「待合室」

作・キタモトマサヤ
換気扇の音
腹筋
ホテル来て、こんなとこで待たされるの、オレ初めてや。
平野
よく来るんですか?
腹筋
えっ、いや…。
平野
うふふ…。
腹筋
オレたちは今、ホテルの待合室にいる。休日前の深夜。正確には夜明けまであと少し。ホテルは満室だった.ベッドを中心に撮影された各部屋の写真の前で、オレはちゅうちょしていた。するとフロント係の見えない声が答えた。すぐに空きますので、そのドアの向こうでお待ち下さい。準備ができましたらお部屋をノックしてお知らせしますと。連れの女性は口数が少ない。名前は…聞いたはずだが忘れた。
腹筋
久々にこの街にやってきた。いや、帰ったというべきだろうか。とはいっても、実のところ仕事の打ち合わせで、居酒屋を何軒か流れて、オレは久しぶりに陽気に、そして久しぶりに酒に酔った。飲みすぎたなと感じていた。いつのまにか彼女がオレの隣にいた。とうに日付けも変わったというのに、オレたちの出会った居酒屋は喧操に満ちていた。そうして、オレたちは夜明けまで眠らない街の、狭いほこりっぽい部屋にいる。
換気扇の音
腹筋
窓がないんやな。こういうホテルって。ほら、窓のカタチだけ残っているけど、開かへんようになってるんやな。のがせへんでえってことやろか。いや、ホテルが客を。本気で逃げれる思たら逃げられるで、なっ。
平野
アタシは、ちょっと無理、かな。
腹筋
ここは確か2階やったよな。階段上がったし。2階ぐらいやったら、窓壊して飛び降りても大丈夫やで。
平野
…こわい。
腹筋
ほなら叫ぶんや。外に向かって。助けて下さい。私はここに閉じ込められてます。助けて下さい。ドンドンドンドンってな。
腹筋
オレは今ここにいる彼女と、いつかも出会ったことがある、はずだ。そんな記憶がたぐり寄せられたのは、風景がガラリと一変したとはいえなつかしいこの街をこの部屋に物置のように積み上げられた使わなくなった物たちや、オレたちの座っている長イスの、時の流れとともにくすんだ壁紙の色の、そして何よりも部屋自体がかかえこんだカビくさい空気そのものの、魔法のせいであったのだろう。かつて、この街にあった細い路地裏の、大きなつくりの木造家屋の2階に見た…。
換気扇の音
腹筋
高校一年生で初恋って、絶対遅いよな。信じやんでもええねんけど、初恋の人に似てるねん。
平野
えっ、アタシが……。
腹筋
うん。
平野
そのセリフ、アタシで何人目ですか?
腹筋
そやから信じてもらわんでもええねんて。
腹筋
あの少女はオレと同い年くらいだったろうか。高校への通学路でオレは少女の姿を初めて目にした。どんなに天気が良い日でもその路地はいつも湿っぽく、コケとツタの深い縁が繁っている。高い石造りのへいに囲まれた古い家。2階の窓の少女の白い顔。ぼんやりこっちをながめている。友達はいるのだろうか。重い病気で1日中、外への思いを積み重ねているのだろうか。高校への行きと帰りに数回、3年間でたった5度か6度彼女を目にしたきりで、あとは閉じられた雨戸ばかり見上げていた。そこは空き家じゃなかったけれど、少女以外の住人を見たことがない。お化け屋敷そう言う友人も確かにいた。忘れたはずだったのに……あの年のあの朝のあと、きっとあの路地はなくなった。古い家も。
換気扇の音
平野
ねえ、酔ってます?
腹筋
あ、ああ、かなり。
平野
寝てましたよ。
腹筋
え、オレが?
平野
ええ。
腹筋
もうすぐ朝やな。いつまで待たされるんかな。こんな朝早うチェックアウトするアベックているんかな。ここホンマに待合室やろうか。だいいち生活の匂い残りすぎてるでこの部屋。どっか古い屋敷の物置きや。
犯人
換気扇の音 止人だ部屋をノックする音
腹筋
あっ…あれっ?キミ、どっちから聞こえる?ノックする音。なっ、開かへん窓の方からと違うんか?
部屋をノックする音は、しばらく続く