第376話(2003年6月13日 ON AIR)

「ワンカップに水」

作・樋口美友喜
あっちの角、こっちの角をきょろきょろしながらふらふらする楯子
そんな楯子の後を、おずおずとついてまわるシラケ
梔 子
はーい。
シラケ
はい、あなた。
梔 子
道に迷いました。
シラケ
だからさっきからそう言ってるでしょう。
梔 子
だからさっきから聞いてるじゃない。やだわ、あんた何聞いてたわけ。いい?いい?大切なことはね、二度は聞かないものよ。で、どの角曲がればいいかしら?
シラケ
それが分かればこんなにぐるぐるしないでしょ。道知ってるの僕じゃないんですから。
梔 子
あてずっぽゲーム。その角。
シラケ
そこはさっき曲がりました。焼き鳥ケンちゃんがあるだけです。
梔 子
あ、そう?うそ!
シラケ
むこうの角も曲がりました。コインランドリーがあるだけ。そっちですか?商店街の中ですか?
梔 子
パッパ、パッパ言わないでよ。頭パッパ、パッパになっちゃうじゃない。
シラケ
もういいですよ。その、何ですか?おいしいお酒があるとこですか?連れて行ってくれるのはうれしいですけど、もう時間遅いし、いいですよ。
梔 子
・・・やだわ・・・あら?やだわ、ちょっと、ねぇ。
シラケ
はい?
梔 子
酔ってるじゃない、私。
シラケ
はい。
梔 子
はい、じゃないのよ。あんたよく考えて。酔ってるのよ?自覚症状あるだけマシだけど。
冷静に考えてよ。酔ってる人間に道聞いて分かるわけないでしょう?
シラケ
連れて行くって言ったから。
梔 子
そうよ。行ったことあるんだから。前にね。
シラケ
じゃ、覚えてるでしょう?
梔 子
その時もなんせ酔ってたから。よく辿りつけたと思うわ。うん。我ながらね。
シラケ
もういいですって。僕ね、明日の朝早いですから。
梔 子
だからこそ今日は飲むの。
シラケ
もう十分飲んでるじゃないですか。
梔 子
違うのねぇ。もうちょっとね、おいしいのをね、飲ませてあげたいわけよ。
シラケ
気持ちだけでいいですから。
梔 子
だって向こうで飲んだりできないでしょう?
シラケ
だと思いますけど。
梔 子
流れ弾とか飛んでくるんじゃないの?
シラケ
あるかもしれませんね。
梔 子
地雷とか。
シラケ
あるでしょうね。
梔 子
なんでまたそんなところに行きたいとか思うかな。
シラケ
なんででしょうね。
梔 子
また一緒に海の写真撮る仕事しようよ。
シラケ
いいですよね。海。
梔 子
でしょ?
シラケ
でも、人、撮りたくなったんで。
梔 子
国内でいいじゃない。なんでまた海の向こうに行くわけ?
シラケ
なんででしょうね。
梔 子
呼ばれた?
シラケ
呼ばれたんでしょうね。
梔 子
・・・あー・・・風、気持ちいい・・・
シラケ
ワンカップ。
梔 子
あー・・・?
シラケ
買ってきますよ。
梔 子
おー・・・
シラケは近くの自販機へと走る
梔 子
呼ばれた・・・ねぇ・・・
風は楯子の頬を撫でる
梔 子
あたしも呼んだんだけどなぁ。聞こえなかったか・・・
シラケ
いいもんありましたよ。
向こうから大声で、シラケが声かけた
梔 子
いいもん?
シラケ
ワンカップをね、こう・・・
と、中身を全部捨てた
梔 子
ああ!ちょっと!何捨ててるの?もったいないじゃないよ。
シラケ
いいんです。
梔 子
あ?
シラケ
お酒のかわりに。
梔 子
六甲のおいしい水?
シラケ
ほんとはね、ちゃんと盃にお酒じゃなくてお水入れて飲むんです。
梔 子
なんでよ。
シラケ
別れの酒は、こうするんだって。
梔 子
別れの酒でも、中身は酒でしょ?当たり前じゃないよ。
シラケ
二度と会うことがないときの別れの酒はね、盃の中は、水なんだって。
静かに、ワンカップに注がれる水
ふたつとも注がれると、ワンカップの安物のガラスがカチンとぶつかりあう音
梔 子
それっくらいの、心意気でってことだ。
シラケ
それっくらいの。
梔 子
そっか。
シラケ
そうなんです。
梔 子
いってらっしゃい。
シラケ
はい。
梔 子
さよなら。
シラケ
さよなら。
きっと、この乾杯は忘れないだろう
おわり