558話(2006年12月9日 ON AIR)

「泥の雫」

作・山岡徳貴子(魚灯)
 (モノローグ)兄が昨日死んだ。三日間降り続いた雨の中、バイクを走らせて車にぶつかったらしい。
思えば兄とはもう何年もまともに会話したことがなかった。最後に会ったのは私の結婚式だったと思う。兄の姿は相変わらずどこか卑屈で、ろくな会話もせず、「用事があるから」と、さっさと帰ってくれてホッとしたことを覚えている。
中学高校と、私はこの兄のおかげでどんなに惨めな思いをしたかわからない。そうそう、兄妹だと知られたくない為に、
突然車の通り過ぎる音。
あ。(また泥が付く)
避けろよ。
やだな…どうしよ…
そういえば見たことないな。その喪服。
いいでしょこれ上品で。
高かったろ。
ちょっと前にね「冬の大礼服祭」で買ったのよ。
高かったろ。
でももうサイズ合わなくなっちゃったから前のは。買っておいて良かったのよ。
いくらしたんだよ。
…ねぇ、覚えてない?私達の結婚式で。
うん。
来たじゃない。
…お兄さん?
何か喋った気がするのね。
うん。
何喋ったっけ私。
知らない。
あなたも横にいたのよ確か。
うん。
何喋ったっけ。
知らない。
あの時だけでしょ会ったのって。覚えてないの?
正直顔も曖昧で。
……
…あ、いやごめん。
顔。あなた「顔、似てますね」って言ったのよ。
そうだっけ。
向こうも「兄妹ですからね」って言って。その後なんか言ったんだっけ。
私も何か言わなかった?
知らない。
(モノローグ)事故が起きたのは明け方だったらしい。そんな時間にサラリーマンがどこに向かったんだろう。雨の中、バイクで。…もしかするとこうなることを覚悟してたのかもしれない。
…俺はね、コンビニでも行ったんじゃないかと思うんだけどな。お兄さん。
…え?
思い出したんだよ。プリン買いに行かされた事があるだろお前に。
雪が積もった朝に。
そう?
自転車で行って来いって言われて何回も滑って転んで。
あなたそんな事してくれる人じゃないじゃない。
学生の時。
あぁ。
きっといい感じでコンビニ向かったんだよ。お兄さんも。
そんな相手、いるわけないじゃないあの人に。
わかんないだろ。
……
わかんないじゃないか。
(モノローグ)夫が何を言いたいかよくわかっていた。昔からわかっていた。
…情けなくて惨めなのは私の方だということ。
車が水溜りに突っ込む。
うわっ…
(モノローグ)泥交じりの水しぶきは、今度こそ私の頬をめがけて飛んできた。泥の雫は首元をつたい、胸の谷間を這って、私の中心の、ヘソにまで到着した。その瞬間、きっとこうやって泥まみれになったであろう兄の姿を想った。
ちょっ…拭けよ早く汚いな…大体そこじゃなくてもうちょっとこっちに寄れば、
(呟く)兄さん…
え?
…兄さん…
……。
…呼びたかったのよ。そういう風に。兄さんって。
…うん。
……。
……遅れるぞ。
……はい。
【お終い】