601話(2007年10月6日 ON AIR)

「コウフクのキ」

作・大正まろん
私が、ここに存在するようになったのはいつのことだろう。
許せん、どうにも許せんのだ。わかるか、お前。
ヴァイオリンさんは私をパシッと叩いた。息からはたっぷりのアルコールの匂い。
あいつは曲の解釈がぜんぜん浅い。しかしよ、向こうが決定権を握ってるわけだ。
カーテンはもう何日も閉め切ったままだ。光も風も入らないこの場所で、私は少しずつ腐っていく。
あのコチコチ頭のトンカチ野郎に、へいこら従ってられるかってんだ。な。
ヴァイオリンさんが言っていることは、私にはよくわからない。私がわかるのは、私を振動させる音の響き、匂い、そして光、それだけだ。だからわかる。ヴァイオリンさんも腐りはじめている、私のように。
ミスったんじゃねえんだよ。あいつに一杯くわせてやろうとしただけなんだってば。
ヴァイオリンさんは、「オオケストラ」の「ヴァイオリニスト」だ。もちろん、私は「オオケストラ」も「ヴァイオリニスト」もなんの事かよくわからない。
あいつは、なんにもわかっちゃいねえんだよ。
ヴァイオリンさんを、ヴァイオリンさんと呼んだいたのは、ララさんだった。そう・・・ララさん。ララさんが、私をここへ連れてきたのだ。
飲みすぎで、腕が落ちたって言いやがったんだよ。へっ笑わせんな。俺は飲めば飲むほど冴えまくるんだよ、俺にはバッカスの神がついてんだ。ボンクラには理解できねえんだよ・・・畜生・・・。
ララさんは、私を「コウフクのキ」と呼んだ。ララさんが口にしたコウフクという響きは、とても美しかった。意味はわからないけど、体に力がみなぎるような気がした。
酒をやめるか、オーケストラをやめるか決めろだと。馬鹿にしやがって。
あの頃、ヴァイオリンさんの、奏でる音楽は、澄み切った空を舞うひばりのようだった。ララさんも、鈴の音のように歌い、そして二人はよく笑った。
もういいさ、もういいんだ・・・どうにでもなれってんだ。
この場所から笑い声が消えても、私はあの響きを忘れたことはなかった。・・・コウフク、私はコウフクのキ。
なんだお前、元気ないな。
ねえ、私に新しい空気を吸わせて、そして光を与えて。
ようし、お前もビール飲むか。
やめて。ねえ、私には、まだやるべきことがあるの。腐って萎れてしまう前に。
お?・・・なんじゃこりゃ。
もうすぐ咲くの。
花?
そう、花が咲くのよ。
ややや、やや、こりゃすげえ。ブラボー!
ヴァイオリンさんは、私にぶら下げられた、タグを手に取った。
幸福の木・・・お前、故郷はメキシコなんだ。テキーラの国だよ。テキーラか・・・でもしばらく酒はやめだ。やめるさ、やめて、ギャフンと言わせてやるんだ、あいつをよ。
今、私は、光を浴びている。ヴァイオリンさんが、時々、ベランダで日光浴させてくれるようになったのだ。
いい天気だな、今日も。
ヴァイオリンさんの奏でる音が、少しずつ澄んでいく。
終わってまた始まる。