620話(2008年2月16日 ON AIR)
「 耳 」

作 /平野舞

耳がかゆい、と弟が言うので
僕は中をのぞいてみました。

暗い小さな穴に目をこらすと
中はしんしんと雪が降っていて
小さな雪だるまが見えます。

目と鼻がついていて、あとは口をつけると完成です。

細い、湿った小枝を小さく折って
雪だるまの顔に口をつけました。

ふくれっ面をした時の弟の顔そっくりになったので
僕は思わず声をたてて笑いました。

   

兄さん、どうかした?

   

耳の中の様子を話してやると
今度は弟が僕の耳をのぞくと言いました。

何が見える?

   

兄さんの部屋だ。
お父さんとお母さんもいる。
兄さん、なんだかしかられているみたい。
机の上に煙草の箱が置いてあって。
腕組みをしたお父さんが何か言ってる。
おこってるの?

   

ああ、そうだった。
あの日僕は、一番上等のまっさらな煙草を買って
引き出しの中に隠していました。
ふとしたことでそれがみつかってしまって
父さんも母さんも驚いた様子でした。

うまい言葉がなかなかでてこなくて
いつまでも黙っている僕に
今すぐこれを捨てて来い、
と父さんが言いました。

僕は
そして
そのまま
なんにも言えずに
まっさらな煙草を捨てに行ったんだっけ。

   

大丈夫だよ。
ちゃんと、ちがうよって言ってきたよ。

   

え?

   

あの煙草は、お父さんへのプレゼントだったんだよって。
見つからないように大切にしまってたんだよって。
そしたら二人とも
兄さんにわるいことしたって言ってた。
すまなかったって。
次に会ったら、おもいっきり抱きしめて離さないって
そう伝えてって。

   

そう言って
弟は小さな手で
僕の髪をなでました。

   

僕らは今からシャワーを浴びるそうです。
もうかれこれ2時間待っています。
長い行列でくたびれましたが
荷物も、服も、靴も、ぼうしもあずけていて
手ぶらなので、少しましです。
さっぱりしてきれいになったら
先に出発した家族にも会えるらしいです。

弟は疲れて眠っています。

すぐ外にある大きな煙突からは
灰色の煙がもうもうと上がっていて
同じ色をした曇り空に広がっていきます。

眠っている弟の
ちいさな耳の穴を
もう一度のぞいてみましたが
やわらかい産毛のむこうには
もう何も見えませんでした。

   
おわり
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