707話(2009年10月17日 ON AIR)
「 溜息の名前 」

作 /樋口ミユ(劇団Ugly Ducling)

 

窓を開けると、小鳥が鳴いた。
朝。
太陽がキラキラして、まぶしくて、清々しかった。

いい

おはよう。いい天気だよ。

ああ

…おはよう。

 

目玉焼きが焼ける音、ミルクがコップに注がれる。
洗濯機がゴォンゴォン音を立てる。
やかんが音を立てる。
ピィィィィィ

いい

紅茶なにがいいかな。

ああ

ねぇ。

いい

うん?

ああ

あたし、あなたを憎んでいるの。

いい

知ってる。

ああ

あたし、あなたが大嫌い。

いい

知ってる。

ああ

あたし、いつかあなたに復讐するんだから。

いい

知ってるよ。ダージリン?クィーンマリー?

ああ

…オレンジペコ。

 

ああはそう言いながらベッドでもぞもぞする。

いい

起き上がる?

ああ

いい、自分でするから。

いい

手かすよ。

ああ

いい、自分で出来る、か、ら、

 

何度かもがいたあと、ドサリとああはベッドに落ち込んだ。

いい

両手でここ持って、そう。

ああ

あたし、あなたを憎んでいるの。

いい

引っ張りあげるから、いい?

ああ

あたし、あなたが大嫌い。

いい

枕、背もたれにするから。

ああ

あたし、いつかあなたに復讐するんだから。

いい

よいしょ。

ああ

指、一本一本が、

いい

朝ごはん持ってくるね。

ああ

自由に、動くようになったら、すぐに、すぐに。あなたを、

いい

うん。待ってる。

ああ

その余裕はどこから来るの?

いい

余裕なんかないよ。いつノド掻っ切られるか、ひやひやしてる。

ああ

あたしが動けないから?動ける未来が見えそうにないから?

いい

気持ちの問題だって。お医者さんもそう言ってる。

ああ

何年も動かないのよ。ベッドに寝てるあたしを見て、家族はずっと溜息ついてた。ああ。ああ。ああ。って。

いい

ああ…

ああ

そのうちそれがあたしの名前になるくらい、
本当の名前なんて呼んでもらったことなかった。溜息がつもってばかりの家。
優しい言葉もかけられたことなかった、
休日はいつもあたしだけがベッドに置いていかれ てた。
それでも、それでも、あたしの家族だったのよ。

いい

ああ…

ああ

それは溜息?それともあたしを呼んだの?

いい

朝ごはん、持ってくる。

 

いいが部屋の扉を閉めるまでの間、ああはずっと叫んでいる。

ああ

あたしの面倒なんか見て、絶対後悔するから。死ぬまで後悔させるから、死んだほうがマシだって言いたくなるくらい、あんたがあたしを本当のひとりぼっちにしたから、

 

バタン、と扉が閉まるとああの声も、もう聞こえない。
扉にもたれながら、いいは溜息をこぼした。

いい

ああ。

 

またひとつ、

いい

ああ、

 

またもうひとつ、

いい

ああ…この憎しみが、愛しいと思う僕は、本当に狂っている。

 

いいは溜息なのか、呼びかけなのか、ああ、ああとつぶやく。
この恋は、誰も幸せになど、ならないのに。

   
おしまい
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