784話(2011年4月9日 ON AIR)
「シズム」

作・Sarah

 

風の音。桜の花びらが散っている。
ひとりの老人と、どこか浮かない表情の若い女がベンチで話している。

  
老人

それにしても、見事な桜の木です

はい・・あの、それで

老人

ああ、失礼。あれは・・そう、確か私がちょうどお嬢さんと同じくらいの年の頃でした。はじめて『しずんだ』のは

その『しずむ』というのは、一体?

老人

もう十の昔に潰れてしまいましたがね、ほらそこの駅前の、今は携帯ショップになっている曲がり角です。かつて、あそこは雑居ビルで1階が喫茶店になってましてね。
仕事の合間を見計らってはカランカランと鳴る扉を開け、ぶっきらぼうな店主に一杯のコーヒーを頼んだものです。それがまた薄くて不味い。でも不思議と落ち着いた。
完璧 ではないからこそ、心を和ませてくれたのかもしれません

少し、わかる気がします。それで?

老人

おっと、どうも話しが脱線していけません。そう、いつもは決まってカウンターに座るんですが、あの日は自分でもどういう風の吹き回しか、窓際のソファーに座ってみる気になった。えんじ色の少しタバコの灰でこげたそれは、まるであつらえたかの様に、おずおずと座る私を包み込んでくれました。すると一瞬、音が消えた

音・・ですか?

老人

人々が行き交う足音、車のクラクション、カウンターの向こう側でコーヒーをコポコポとたてる音。それらが一気に掻き消え、心地よい空白の時が生まれました。
そして私の体は、手、足、胴体、頭と徐々にソファーに埋もれてゆき、最後にはツメの先ひとつ残らず『しずんだ』のです。
次に気がついたとき、私はビルの屋上に立っていた

屋上?

老人

しずんだ』あとは、どうも上に上にいってしまうようでして。
それから私は時折『しずむ』ようになりました。布団に『しずんだ』ときは家の屋根に、背負ったリュックに『しずんだ』ときは山頂に。
そうそう、飼ってた猫と猫の間に『しずんだ』ときは人様のお屋敷の高い塀の上で、降りるのに苦労しましたよ

  
 

老人はどことなく楽しげに、くすりと笑う。

  
老人

信じられないという顔ですな?では、その目でご覧になるといい

『しずむ』のを、ですか?

老人

あらゆるものに『しずんで』きたつもりでしたが、まだ『しずんで』いないものがありました。これです

  
 

老人が上を見上げる。風の音。桜の花びらが一層舞う。

  

桜の花びら・・

老人

これだけ積もれば『しずめ』そうです

桜に『しずんだ』ら、どこにいくのかしら(呟く)

老人

ああ、そろそろです。それでは、お嬢さん

待って、おじいさん。私にも『しずめ』ますか?

老人

半分はとっくに成功していますよ

え?

老人

だって、あなた最初から気分がすっかり

あ・・ええ。そうですね

老人

委ねればいいんですよ。あとは上に上にいくだけです。いつかまた会いましょう

  
 

老人の声は次第に掻き消え、桜の花びらに『しずんで』いなくなってしまう。

  

おじいさん?

 

女が呼びかけるも返事はない。女は桜の木を見上げる。

  

・・あとは上に上にいくだけです

  
  
END
閉じる