799話(2011年7月23日 ON AIR)
「ヘミングウェイの鞄」

作・山内直哉

 

1932年
大雨の降る昼下がり
傘を差して歩くヘミングウェイ(33歳)
そこにナレーションが被る(※あとで登場する女性とは違う声色で)

  
女N

文豪ヘミングウェイ。1922年、リヨン駅にて、メモの入った鞄が盗難にあう。
その時に多くの長編・短編プロットが失われたと言われている

  
 

リヨン駅
忘れ物センター
年配の女性が受付にいる

  

すみません

はい、ココに何を無くしたか、無くした場所、日にちとだいたいの時間、書いて

すみません、鞄、届いてませんか?

まず、コレに書いてちょうだい?

…ヘミングウェイです

はい?

ヘミングウェイ

誰か知らないけど、まず書いて。忘れ物センターの規則なんで

あの、去年までいたお姉さんは?

ああ、先月、辞めたよ?

何か、聞いてませんか

何か?

私の鞄について

聞いてないけど? 鞄?

はい

どんな鞄?

旅行カバンです。スーツケースみたいな

無くしたの、いつ?

だいたい10年前

10年前!?

毎年、届いてないか確認に来てるんですが、無ければ…

え、何が入ってたの

アイデアのメモです。原稿もちょっと

物書きさん?

ヘミングウェイ、聞いたことありませんか?

ヘミング…

『日はまた昇る』『武器よさらば』

え?

私が書いた小説のタイトルです

ああ、ごめんなさい。本読まないから。というか、あなた、メモ無くしたけど、ちゃんと書けてるんじゃない

…フフフフ(無神経な言葉に思わず力が抜けて笑いが漏れる)

フフフフ(男の笑いを取り違え「そうでしょ?」の意味で笑う)

  

あなたには、すべてを失って、そこから這い上がって来たこのツラさが分からないでしょう。これは、例えるなら、タイプライターで1年かけて打った原稿が、一瞬にして燃えてしまうようなものです。この絶望感。虚脱感。今でも時々、心が折れそうになります。あの時、鞄を無くしてなければ…(言葉に詰まる)

こういう言葉、ご存知かしら。ある有名な人が言ったらしいの。“今は「ないもの」について考えるときではない。「今あるもの」で、何ができるか考えるときである”その人はこうも言ってる。“人間の価値は、絶望的な敗北に直面して、いかにふるまうかにかかっている”…まあ、お客様に聞いただけなんで、誰の言葉か分かんないけど

私の言葉です

え?

私が昔言った言葉ですよ

あなたの…

まさか、自分に励まされるとは(と、失笑して)どうも失礼しました。もう分かってるんです。鞄は見つからない。ココに来るのは、ただの気休めなんです(対応してくれて)どうもありがとうございました

あ、傘

あっ(と、照れ笑い)

目の前の傘だけは、忘れないで

  
 

大雨が降る昼下がり
傘を勢いよく広げる音
傘を差して歩くヘミングウェイ

  
女N

文豪ヘミングウェイ。その後『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』などの代表作を世に出し、1954年、ノーベル文学賞を受賞。それは、鞄を無くしてから32年後のことでした―

  
  
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