83話(1997年10月31日 ON AIR)

「一番好きな年齢(とし)」

作・片瀬 慶子
 
沸騰する空気。突然の雨を逃れたクルマの中。
「ずっと32歳になりたかったの。」
 
君は言った。
「だから、この街ができる頃、私もう楽しみがなくなってしまう。」
 
君と出会って3ヵ月。その間に君は32歳になった。

僕はカメラマン。君は編集者。社内報の表紙を撮る仕事で知りあった。初めて会った春の日、君はもうブロンズ色の肌をしていたから、君が夏に生まれたと聞いた時、とても自然な気がした。
けれど、それからの君は僕の第一印象を裏切り続ける。
いや、第一印象の君も確かにいた。そして、何人もの君。
それが君。

君は続ける。雨に濡れた髪から甘い匂いを立ちのぼらせて。
「ちょうど、あの彼女たちぐらい、19か20。その感覚を持ち続けていないと編集の仕事ってできないって言われたことがあるの。そんな若い友達も何人かいるけど、話があわないと思ったことないわ。でも、私あんな年の頃から、32歳になりたかった。」
 
君の19歳はどんなんだったんだろう。表情をこわばらせる19のモデルの少女に話しかける君は、やっぱり僕には大人に見えた。
「いい仕事をしたいわ。誰の感覚にも媚びないで。私が私を認めてあげられる仕事。
小さい子供の頃から、私きれいな絵しか描けなかったの。
青い空、白い雲、青い海。ちょうど、ここみたいな景色。
ここには真っ白い橋もあるわね。中学生になると、私のそんな絵はリアリティーがないと言われたわ。訴えるものがないって。何だかわからなくなっちゃって、迷ったわ。中途半端に走るのをやめられなくて。むやみに突っ走り続けた。でも、脱け出た時、やっと本当に自分の好きなものがわかった気がしたわ。」
 
君から、新しい街で撮りたいと電話が入った時のことを思い出す。
「広報室Mです。お疲れさまでございます。Iさんいらっしゃいますか。」
 
落ち着いた働く女の声。
お疲れさま、僕ですけど。」
「ねぇ見た、見た、昨日の夕刊の1面。カラーで出てた、新しい街完成の記事。」
君は急に少女の声になる。
「あそこでやりましょうよ。女の子は2人、姉妹っぽい感じで。リバティープリントのドレス。きれいな絵、撮れるわよ。」
「OK」

その時僕はもう君と仕事をするのが好きになってた。

空が明るくなり、雨が止んだ。突然の雨は幸運を運ぶ。空は青く、筆で掃いたような白い雲。
「今からが本番ね。」
 
雨に濡れた君の髪は見たこともない、ソバージュヘアー。
「泳ぐのが好きだから、濡れても大丈夫なスタイルにしてるのよ。仕事のときは、いつもカーラーで巻いてるけどね。」
 
君に驚かされるのが楽しかった。
「ありがとう。あなたと仕事をすると楽しいわ、同志って感じで。あの街がオープンしたら一緒に行ってみたいわね。」
 
そう言って駅でわかれてから、君と仕事をすることはなかった。
会社をやめたと聞いたのは、誰からだっただろう。それから、1年。僕は33本のゆりを君に贈った。君がミュシャが好きだと言っていたから。その日、外出から帰った僕の机の上に、君からのメッセージメモ。きれいなゆりをありがとう。
1番好きだった年も終わっちゃったわ。
もう、あの街はオープンするよ。君は僕と一緒に行かないの。

君の32歳は存分に輝いていただろうか。

今、僕は女性の34歳が一番好きな年。君の年齢をなぞっているんだ。きっとステキだと思うから。だから、楽しみがないなんて言わないで。いつか僕と一緒にあの街に行こう。