833話(2012年3月17日 ON AIR)
「夕焼け」

作・砂原悟空 (さはらカーニバル)

  
 

田んぼのあぜ道。土手の法面(のりめん)を老婆が一人登っている。

  
お婆

…自転車道(みち)の、南側の、田んぼを越えて、つきあたり。

  
 

記憶をたどるように、息を切らしながら一歩また一歩。

  
お婆

…つ、つきあたりの、この。…この、高い高い、土手を、登りきったら!

  
 

最後の力をふりしぼって土手を登りきる老婆。

  
お婆

…あああ。やっぱり、この景色。ああ、良かった。私、ちゃんと覚えていた。

  
 

遠くで男がつぶやく声が聞こえてくる。

  
お爺

…をいくつか越えて、つきあたりの、高い高い土手…

お婆

…え?

お爺

大きな大きな「ため池」が、ふたつ。自転車道の南…。

  
 

ぶつぶつと抑揚のない独り言が繰り返されている。

  
お婆

…あの?

お爺

…。

  
 

つぶやきがぴたりと止まる。

  
お婆

…坊(ぼう)ちゃん?

お爺

あ、姉ちゃん。

お婆

坊ちゃん。坊ちゃん?

お爺

姉ちゃん。姉ちゃん。

お婆

どうしたの?こんな所で…。

お爺

どうもしない。

  
お婆

先に行かなかったの?

お爺

うん。

お婆

坊ちゃん、ひとりだけ?

お爺

うん、ひとりだけ。

お婆

そう。

  
 

お婆は辺りに目をやるが、見渡す限り誰もいない。

  
お婆

坊ちゃん、待っていてくれたの?

お爺

うん。

お婆

姉ちゃんが迷子にならないように?

お爺

うん、待っていた。

お婆

寒くなかった?

お爺

寒くなかった。

お婆

ああ、でも、お手々がこんなに冷たくなって。さすってあげようね。

  
 

息をかけながらお爺の手を暖めるお婆。

  
お婆

…しばらく会わないうちに、坊ちゃんも、もうすっかりお爺さんですね。

お爺

うん、姉ちゃんもお爺さん。

お婆

坊ちゃん、姉ちゃんは「お爺さん」にはなりたくないです。

お爺

お爺さんになりたくない?

お婆

姉ちゃんは、お爺さんではなくて、お婆さんです。

お爺

お婆さん?

お婆

はい。

お爺

姉ちゃんは、お婆さんになりたい。

  
お婆

え?

お爺

姉ちゃんは、お婆さんになりたい。

お婆

いや。とりたてて「なりたい」わけではありません。

お爺

…うん?姉ちゃんは、お婆さんにも、なりたくない。

お婆

そうね。まあ、正確には、どうやら、そのような感じです。

お爺

姉ちゃんは、お婆さんになるのをやめました。

お婆

ああ、それがいい。そうしましょう。姉ちゃんは、お婆さんをやめました。

お爺

やめました。

お婆

坊ちゃんも、もう、お爺さんをやめました。

お爺

やめましたあ。

  
 

二人の笑い声が軽やかに響く。

  
お婆

…あ。

お爺

うん?

お婆

見て、坊ちゃん。ほら、おてんとうさまが…。

お爺

うわあ、柿色。美味しそうです。

お婆

やっぱり、この土手の上から見る夕焼けが、一番きれいな夕焼けです。

お爺

はい。世界で一番きれいな夕焼けです。

お婆

これは坊ちゃんの記憶の中の風景?

お爺

うん。もう世界中のどこにもない、60年以上も前の、思い出の中の景色。

お婆

私、どうしても、もう一度この夕焼けを見ておきたかった。生きてるうちにはかなわなかったけれど…。

  
お爺

「自転車道の南側。田んぼをいくつか越えて、つきあたりの高い高い土手を登ったところに、大きな大きな「ため池」がふたつ。」

お婆

風のない日の夕暮れは、池の水面(みなも)が鏡のようで、夕日の照り返しが、眩しく、眩しく、熱い。…私にとって、ここが、世界で一番美しい風景。

お爺

…。

お婆

坊ちゃん、ありがとうね。

お爺

もう、大丈夫?

お婆

ええ、大丈夫。

お爺

では、おてんとうさまが西のお山に隠れる前に。

お婆

はい、そろそろ参るといたしましょう。

  
 

風がキラキラと音をたてて光の粒を運んでくる。

  
お婆

あら、なんだか身体が急に軽くなったような気がします。

お爺

身体がふわふわ。このまま空も飛べそうです。

お婆

坊ちゃん、持病の痛風に気をつけて!

お爺

身体がふわふわ。もう痛くありません。

お婆

あら、本当ね。姉ちゃんのリウマチも痛くありません。

お爺

ふわふわ。

お婆

ふわふわ。

二人

もう、痛くなーい。

  
 

二人の笑い声が軽やかに響く。

  
  
  
(おしまい)