836話(2012年4月7日 ON AIR)
「かなしいピアノ」

作・Sarah

  
 

使い古した茶色の鞄を下げた男が、一軒の古びた家の呼び鈴を鳴らす。
その家の娘らしい若い女が扉を開ける。

  

お待ちしてましたわ

一年振りですね

ええ。またあなたで良かったです

去年も確かこんな天気のいい昼下がりでした。
お庭の桜がそれはそれは綺麗で・・今年も?

満開ですわ。どうぞ、おあがりください

それで私が調律させていただく、『ピアノ』はどちらに

去年とおなじように居間におりますわ。
いつだって彼女はあの桜の木のみえる居間で歌って・・いえ、奏でているんです

なるほど

  
 

娘は居間の扉をあける。そこには大きな窓一面に広がる桜。
そして窓の前には年老いた女性が立っている。

  

ほうこれは・・

母さん、調律師の方がおみえになられましたよ。母さん

  
 

娘が母と呼ぶその女性の肩をそっと叩く すると女性は<ド>の音を、まるでピアノの鍵盤を押されたかのように静かに歌う。

  

今年もまた・・一段と美しい桜が咲きましたね、奥様

  
 

女性は男の言葉を肯定するかのように<ファ>の音を奏でる。

  

では、はじめさせて頂きましょう

  
 

男が鞄から音叉を出し耳に近づけ軽く叩くと、静かに音がする。
今度は男が女性の指に一本ずつ軽く触れると、女性は<ソ><レ><シ>と音を奏でる。
しかし、<ラ>の音だけがフラットになり半音下がって聞こえる。

  

ふむ、去年とおんなじだ。 A(アー)の音が下がってますね

母は・・憂いてるんだと思います

・・憂う?

桜をみると幸せな気持ちでいっぱいになるから、それが哀しくて

幸せだと哀しいんですか?

一人で幸せなことは母にとって、とてつもなく哀しいことなんですよ。
ほら、春は一年のはじまりでしょう?
一人で幸せに満ちた春をはじめることが哀しいんです

なるほど、それで・・ Aははじまりの音ですからね

母はやはり、はじめたくないんでしょうか?
その気持ちが Aの音を下げてしまう・・?

いいえ。奥様は秩序を知っておいでです。だから乱れる心が許せず、戒めにご自身を規則正しい鍵盤が並ぶピアノだと思うことになさった。
Aがはじまりであることも、 それを避けられないこともよく理解している。
ただ少し、抵抗してみたいだけなんじゃないでしょうか・・摂理に

母さんったら・・まるで思春期の子どもみたい(少し冗談っぽく)

私にも覚えがありますよ。遠い昔の話しですけどね

  
 

男は女性の耳のそばでチューニングハンマーをキュイ、キュイと鳴らす。
まるで本当に音の調整をしているよう。
すると、女性は綺麗な<ラ>を発する。

  

これでいい。もう大丈夫です

  
 

男は調律の道具をしまう。

  

綺麗な Aの音・・

また新しい春がやってきましたよ。奥様

  
 

女性は正しい音で音楽を奏で出す。(メンデルスゾーンの『春の歌』など)
それはとても軽やかで、調律師の男とその家の娘は、
本当にピアノの演奏を聴いているかのような
錯覚に捕われながら静かに桜を眺める。

  
  
  
END