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1070話(2016年10月1日 ON AIR)
「いつか思い出になる前に」
- 女
- 夜。部屋を覗くと、彼が机に向かって呟きながら何かを書いていた。
- 男
- 確かあれは、島根へ行く修学旅行の前日だった。
当時十四歳だった僕には、生意気なことに恋人がいた。中園美穂というバレー部の主将だった。
その彼女が貝塚奏をシャープペンシルで刺したという小河先生からの一報を受けて、
帰宅後の嬉々とした荷物の準備を途中で放り出し、僕は急いで学校に戻ったのだった。
小さな学区だったため、走れば三分足らずで到着する。
走っているあいだ僕は、如何に自分の保身を図るかで頭が一杯だった。
それなりに優等生だったため、教師に呼び出されるということが殆ど初めてのことだったのだ。
まだ何も始まっていないのに、僕の頭はすでに言い訳で満ち満ちていた。
貝塚奏は内気な女の子で、あまり友達の多いタイプではなかった。
休み時間に、じっと一人で絵を描いているような女の子だ。
それも、実際に絵を描いているかどうかは見たことがないので分からない。
もしかすると、計算ドリルをずっと解いているだけなのかもしれない。
また、そうだとしても特に驚きがない程度に、真面目な女の子だという印象だった。
あまり人と関わらないのだから、喧嘩になるようなことも無いと思うのだけれど。僕はふと、
自分の彼女よりも奏のことを心配していることに気が付き、かいてもいない汗を右手で拭った。
水滴がついた。雨が降り始めていた。
体育館の教員準備室の扉を開けると、左手首に包帯を巻いて項垂れている貝塚奏と、
どうやら泣いているらしい中園美穂と、所在無く立っている小河先生がいた。
僕はまず誰にどんな顔を見せればいいのか分からず、
開けた扉から一歩も動けずに目だけを泳がせて、普段見ることの無い教員用の時間割を眺めて、
「教室に貼ってあるものに比べて随分複雑だな。」なんてことを思った。
「浮谷。」と、小河先生が僕の名前を読んだ。僕は小さく、「はい。」と返事をした。
「急に呼び出して悪かったな。」と小河先生はやけに丁寧に僕に近づいてきた。
「二人が、浮谷がいないと話さないと言って聞かないんだよ。」と、後ろを振り返る。
美穂が僕のことをじっと見つめていることに気が付く。
何かを伝えようとしているようだったが、良く分からなかった。
「何があったんですか。」と、僕は小河先生に尋ねる。
- 女
- ねえ、何書いてるの。
- 男
- 日記だよ。
- 女
- と、浮谷君は答えた。
あたしは自分が、中園美穂でも、貝塚奏でも、どちらでもないことがどうしようもなく寂しかった。
- 男
- と、彼女の日記に書かれていた。
僕もまた、自分が浮谷ではないことが、どうしようもなく寂しかったのだった。
- END
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